お太子まつり 赤津・万徳寺
万徳寺(瀬戸市塩草町)で8月25日、お太子まつりが行われた。昼は「聖徳太子御會式」夜は「二十二夜さま」が行われ、檀家や近隣の人たちで賑わった。
万徳寺は聖徳太子ゆかりの古刹で、太子堂には聖徳太子像、市指定有形文化財の聖徳太子伝歴・絵伝などが納められている。約400年前に徳川義直公が参詣し大法会を行って以降、毎年旧暦7月22日に開催されてきた。(現在は8月第4日曜に固定)
聖徳太子御會式
総門や太子堂に、たくさんの提灯が賑やかに飾り付けられた。本来は、聖徳太子の生涯などの絵が描かれた横長い「掛け行灯」も飾られるのだが、雨の予報のため対の大提灯とともに省略された。掛け行灯は灯りを入れた夜はもちろん、昼間でも華やかなものなので「なくて寂しいね」という参観者の声も聞かれた。
門外にはキッチンカー、境内にはマルシェのテントが並ぶ。
聖徳太子御會式の太子像の奉納、御守りの授与、読経の受付などが行われている。
猿回しも来て、来場者はお猿の十兵衛くんのコミカルな演技を楽しんだ。
瀬戸市史によると、昭和初期~中期には人出がたいへん多く信仰も盛んだったようだ。「太子祭りは万徳寺檀家の下赤津地域の祭りであったが、(中略)寿司などの料理をたくさん作って、親類、知人を呼び合った。」「境内は朝早くから、瀬戸、品野、山口など近在から歩いてお参りに来た人たちで賑わった。太子堂に安置されている聖徳太子像そのものはご開帳仏なので、何年も経たないと開帳しなかった。平年は厨子を閉じたまま御会式がおこなわれた。御会式のお勤めや祈祷は早朝四時頃から始まり、日中、夕方まで続いた。」
現在の人出は往時ほどではなく、檀家や近隣の人がおもな様子。また、夏休み最後の日曜なのだが、子供たちの姿があまりなかった。以前は子供たちがお祭りをとても楽しみにしていたし、学区のPTAでパトロールをしたものだった。
太子堂のご開帳は30年に1度で、次回は2040年となる。ただ昨年は太子まつりと聖徳太子千四百年遠忌を併せて、特別御開帳と聖徳太子絵伝の絵解き法話が行なわれたという。
二十二夜さま
夜に再び訪れると、蓮の花の灯りが道を作っていた。
「『二十二夜さま』とは旧暦の7月22日に行われる『月待ち信仰』です。 これを『お立ち待ち』と言い 願掛けをして 日の入りから 東の山(猿投山)に月が出るまで 座らずに立ち通すと その願いが叶えられるのだそうです。」とお太子まつりのチラシにある。
境内には「二十二夜」の月待塔と、句碑がある。句碑には「お立待 猿投に浮かぶ 月を待つ(おたちまち さなげにうかぶ つきをまつ)」の句が書かれている。
月の出を待つ夜なので、コンサートは境内で行われるのだが、今年は雨の予報のため本堂になった。きらびやかな仏様たちの前で胡弓が奏でられ、曲に合わせて天女のような舞も奉納された。
続いて、大人数の津軽三味線が賑やかに演奏された。
この夜は偶然旧暦7月22日にあたったが、曇り空なうえ月の出にはまだ時間があり帰宅した。しかし往時の人々は、立ったまま月を待って願い事をしたのだという。
「陽が沈むと、太子堂の浜縁に立って、月の出を待ち、願を掛けた。旧七月二二日なら、月は午後一〇時前にならないと出なかった。戦時中は武運長久の願掛けが流行った。当時は色々な絵を描いた掛け行灯を万徳寺太子堂から瀬戸に通じる今坂の峠まで点々と点し、瀬戸からの夜の参詣者を出迎えた。屋台は二〇軒ほど出た。イカ焼き、綿菓子、金魚すくい、輪投げ、バナナの叩き売りなどの店が並んだ。昭和一二年(一九三七)頃までは覗きからくりも出た。」と瀬戸市史にある。
上杉あずき@STEP
参考文献
お太子まつりチラシ
瀬戸市史(民俗編) 平成18年 瀬戸市史編纂委員会 愛知県瀬戸市発行
SETOPEDIA(http://setopedia.seto-guide.jp)
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