無敵の人(死語)について
一昔前に『無敵の人』というネットスラングが流行った。
2ch創設者で今はインフルエンサー?になっているひろゆき氏が、2008年にブログで提唱した言葉だ。
意味合いはなんとなく把握されていると思うが、念のために提唱元の原文を再掲しておく。
この発言が無敵の人に関する最初の言及だ。
無敵の人及び無敵の人予備軍というのは、職がないことをはじめとして
『犯罪行為に手を染めて逮捕されても失う物がない』
人たちのことで、
要は失う物もないようなゴミみたいな人生を送っていると自認している人にとっての自爆思想的な面が多分にある。
まじめに働いて生きても報われない、何も得られないと悟った人にとって、シャバと刑務所は大して変わらないわけで。
この言葉は僕を含めた社会の低層でのたうつ人間の胸に突き刺さった。
失う物が少ない人にとって、犯罪で社会的信用を失うリスクよりも生涯生殺しのまま死んでいくリスクの方が恐ろしかったりする。
僕はなんだかんだで手放したくないものが少しはあるし、身内にお堅い職業の人もいるしで、どうにか踏みとどまっている状態だ。
しかし、この両者がなくなった場合はどうなるかはわからない。
どんなすごい人でも刺せばOK
世の中にはすごい人がいっぱいいる。
メジャーリーガーとかトップアーティストとかが想像されるが、そんな雲の上の話ではない。
身近にも上手くやっていたり幸せな家庭を築いたりしている人間がそこそこにいるのだ。心の調子がよくない時、そういう奴を1人でも多く巻き添えにして死刑にでもなってやろうかとよく思う。
無敵の人やその予備軍は、見た目はしおれているし大人しくしているけれど、腹の奥底に強い怒りを秘めていることがそれなりにある。その怒りは『社会的信用を完全に失うリスク』という脅しによって蓋がされていて、滅多に顔を出すことはない。単純に度胸がない、その気力もない人もいるだろう。
今の僕は、頭の中で凶行を反芻するだけにとどまっているが、数年先にどうなるかはわからない。実際、同じような過程を経て通り魔的犯罪を行う人はぽつぽつと登場している。
川崎市登戸通り魔事件
個人的に記憶に新しいのは川崎市登戸通り魔事件だろうか。
2019年5月28日の7時45分、私立カリタス小学校の児童がスクールバスを待っていたところに、柳葉包丁を持った男が乱入した。
男は「ぶっ殺してる」などと叫びながら包丁を振り回した。
児童やそれをかばった大人たちが刺され、2人が死亡し18人が負傷するという大惨事になった。
死亡者は小学6年生だった女児と、児童をかばった39歳の外務省の男性職員だったそうだ。
犯人は当時51歳の男で、事件前というか事件の30年近く前から引きこもりだったようだ。
事件前は叔父夫婦と同居していた。叔父夫婦は犯人に今後どうしたいのかなどとたまに尋ねていたそうだが、すぐに激昂されるので放置する他なかったそうだ。
非難したいところだが、気持ちはわかってしまう自分がいる。
引きこもりというか社会との接点を失うと、時間と共に視野が狭くなり、他の人間が妬ましくも疎ましくもなり、耳の痛い話に対しても激昂してしまうようになる。
まして51歳にもなると、もう人生の転機など訪れはしない。叔父夫婦が先立った後は、虚無感と怒りに悶えながら、畳のシミになるのを待つのが関の山だろう。
こうなると、人を殺すリスクと大人しく生きるリスクの力関係が逆転してしまう。
なお、私立カリタス小学校は受験を受けて入るような名門校で、裕福な家庭の子供が多いようだ。
同じく名門校を襲った宅間守の事件と重なる部分でもある。
やはり無敵の人の復讐先は裕福で将来有望であり、なおかつ御しやすい相手になる傾向にあるようである。モラル抜きで言えば、確かに芽を潰す方が効率がいいし、自分を負かしてきた(勝手な恨み)ような連中の大切な物をガッツリと奪うことができるわけだ。
宅間守の件も、この事件も、失う物のほぼない人間が恨みという刃を研ぎ澄ました結果として起きたのだと思っている。
なお、こういう事件はだいたい、犯人が男である。
男は攻撃的で~、みたいな男女論の話がしたいわけじゃないが、この辺の攻撃性には性差があると思っている。
男性の場合は他者への加害、女性の場合は自身への加害に傾きがちだ。
これらの事件の犯人は男性の典型例と言えよう。
僕もいちおうは男なので、この類の他者への加害欲求はしっかり持っているし、犯人の気持ちはわからなくもない。
話を戻すが、この犯人は犯行後に逮捕されるかと思いきや、予想の斜め上の行動をとっていた。
なんと、その場で自刃したのである。
自ら首を切ったというのだから、肝がすわっているとしか言いようがない。
たいていの人は、自分に刃物を突き立てようとするとためらってしまい、なかなか死ねないものである。
なお、ここまで散々背景じみたことを話してきたが、自殺してしまったため犯行動機は不明だ。犯人は何も話さないまま命を絶ったので、事件前後の状況から分析する他なくなってしまったのである。
彼は自殺に至るまでに何を思っていたんだろうかとたまに考える。
思ったより殺せた人数が少なく、死刑になるか不安になったのだろうか。
それとも、最初から逮捕されるより死んだ方がマシと振り切っていたんだろうか。
答えを知っている本人がこの世にいない以上、謎は深まるばかりである。
格差も深まる
登戸通り魔事件発生後には、様々な論が展開された。
無敵の人というワードが乱舞していたし、格差社会の闇に言及する人もいた。
たぶん、格差社会はうっすらとした背景にあるんだと思う。
「死ぬなら一人で死ね」
また、「死ぬなら誰にも迷惑かけずに死ね」という意見も目立っていた。
別に犯人をかばうわけじゃないが、これに関しては異を唱えたい。
立つ鳥跡を濁さずというし、誰にも迷惑かけずにひっそりと死ぬのが、確かに第三者からしたら理想的かもしれない。
しかしそもそも、誰にも迷惑かけないなんて殊勝な最期を選ぶ事に期待する方が間違っていると思う。
彼らは恨みが服を着て歩いているようなもので、ただ死ぬだなんて我慢が出来なくなってしまったのだ。
無敵の人と呼ばれる人間の、社会や上手く生きられる人たちへの恨みは並々ならぬものがある。それこそ、刺し違えてもいいと思えるほどに憎んでいる人がいるわけだ。
理不尽に思えるかもしれないが、これは必ずしも、彼らに危害を加えた個人に向くものとは限らない。
上手くやっているっぽい人というぼんやりとした属性に対しても向けられるものだ。だから自身にまったく関係がなくても、成功者っぽい人に刃を向ける。池田小やカリタス小はその典型と言えるだろう。
今後の無敵の人
ここから先は
¥ 500
食費にします