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【読書日記】ヒロインズ/ケイト・ザンブレノ

 読み終わった。ブログを本にまとめたもの(たぶん、おそらく)なので少し読みにくいところがある。

 去年のことである。この本を読んだ。

 それでまぁ面白かったのは面白かったんだけど、女性の登場人物があまりに軽薄で中身がなかったので少し憤っていた。別にモデルがいないヒロインなら中身がなくてもいい。ギャッツビーの場合、積極的に妻ゼルダ・フィッツジェラルドの人格や行動をキャラクターに反映させている。

 作品に描かれた妻の中身が空っぽってどういうこと?


 という感じで憤りを感じてしまった。去年カクヨムに書いていたエッセイにもその思いはつづっていたのだけど、編集画面を圧迫して邪魔だったので消してしまった(笑)。

 イライラしてネットで読めるフィッツジェラルド夫妻に関する文章が大方浚った。夫婦カウンセリングの記録まで残っていてうぇ、と思ってしまう。そんなん公開したらあかんやつでは?

 S.Fはノベリスト、Z.Fはノベルティ

 という言い回しが『ヒロインズ』の中に何度も出てくる。しょせん妻は偉大な作家の付属品ということ。スコットの書いた「夜は優し」とゼルダの書いた「私とワルツを」を読み比べてみたい。ふたりが同時期に「病んだ妻」について描いた作品だ。スコットはゼルダの著作が出版されることを恐れていた。コネを使ってすべてを「検閲」しようとしていた。アイデアが盗まれることを恐れて(彼女の私生活や言葉を盗み出していたのはどちらのほうだたのだろう)。

 ゼルダは診断を受ける。けれども甘やかされて過ごした少女が家事や育児に無知で、かつ各地を転々とする夫との生活で周囲の助けを得られなかったことは簡単に分かることなのに。

 そんなこともわからない夫の方がよほど無能だ。正常な判断能力を疑われるべきだ。入院するなら彼の方だろう。スコット、あなた病気よ。一度お医者様に見てもらうべきだわ。今日もほら、記憶が無くなるまで飲んで。そんな風に自分をコントロールできないって言うのは、とても恐ろしいことなのよ。もう一度自分自身の手綱を取り戻しましょう。(皮肉だよ)。


 という感じで私のゼルダへの思い入れは熱く、ヒロインズを読みつつケイトに同調してしまった。ヒロインズに描かれるヒロインはゼルダ・フィッツジェラルドばかりではない。サルトルと事実婚の関係にあったボードウォール、T.S.エリオットの妻ヴィヴィアン、アナイス・ニンとミラー夫妻。

 きらびやかな著名人たちのゴシップ、愛憎。日本でも作家のブロマイドがアイドルのごとくもてはやされた時期があった。『ヒロインズ』の中で描かれる人間模様はまるで雑誌「Gossips」で取りざたされるセレブニュースのようだ。

 精神分析医とヒステリー女性患者。偉大なる作家とその病んだ妻。GOTHでPOPでMELANCHOLY、ninfomania。そうか、私はふと気がつく。これは現代によみがえったセレブゴシップ文芸誌なのだ。

 冒頭の悲しい色、ブルー。結婚生活への不安。後半のきらびやかな世界へのあこがれ「でも今は二十一世紀だし、私にはドレスもないし、エスコートしてくれる男性もいないし」という感じで終わってしまうのが寂しかった。中盤に描かれるまるで十九世紀の亡霊を口寄せしたみたいな、鮮やかない怒りが第二部の最後で矮小化され小さな部屋に閉じこもってしまった幼い女の子のようになってしまうのが、著者の今の自己評価を表しているようで少し寂しい。複雑な読後感。


 偉大な女性作家のことを考える。アガサクリスティー、ヴァージニア・ウルフ、メアリー・シェリー。彼女たちは過小評価されているのだろうか。ケイト・ザンブレノの言うように、長大で優れた文学作品は「男性」だけに門戸が開かれた限られた世界なのだろうか。

 キャノン。砲身の長さを競うように、小説の長さを競う男性たち。

 Tell'm how you feel, Girl

 

 あなたの気持ちを聞かせて。私たちが書くものは「個人的で」「あけすけで」「感情的で」「経血の香りを漂わせる」「アングラで」「傍流、亜流の」「くだらない」「取るに足らない」「年端もいかない女子供が好むような」「価値のない」ものなのだろうか。

 ほんとうに、そう思う?


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