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Incombustibility Life

 吊り革を掴んでいた手首の時計が知らぬ間に燃やされていて、真っ黒に炭化した肉から煤けた骨が覗いている。かすかに青い骨にこびりつくように残った肉が乾いて煙を上げていた。人肉の焦げた匂いに顔をしかめる。
火を放たれたときはすぐにわかる。炎の色が違うのだ。オレンジは人工の火。青白いのは体の内側から沸き起こる神聖な炎。人工の火では決して燃えない爪のたくましさを想い、人差し指で爪の先をなぞった。萌葱のネイルが煤けている。

 通勤時間の込み入った電車は人の焦げたにおいでいっぱいだった。私は腕時計だし、向こうでは女のスカートが燃やされている。またかという顔のうんざりした人たち。女は目を丸くしてスカートの燃えるのを眺めた後、涙目でうつむきながら電車を降りた。目的地ではなかったのだろう。シートに忘れられた女の日傘が真っ白くまぶしかった。人々の煤ですぐに薄汚れ、日傘は灰の色になる。地面は墨のこすれた跡が縦横無尽に走っている。
 電車の中だけではない。街はどこもかしこも煤だらけで、掃除婦も慣れているのか炭をこすりつけるように床をモップで洗う。燃やされるのは女だけというわけではない。
 けれども自然に燃えるのは女だけ、それも子宮を持った女だけで、職場にひどく美しい女性がいたが、服などはよく燃やされているのに、決してひとりでに燃えない透き通った透明な肌を見てみんな彼女の性別を悟り好き勝手噂した。いづらくなったのか、彼女はいつのまにか姿を消していた。かびすはときどき彼女のことを思い出す。めるという名前の女だった。かびすが知るかぎりめるは女だったのに。体が燃えないばかりに偽物のレッテルを貼られて、ついには追放されてしまった。
 燃えるからってなんなのだ? 宗教学者が言うには女の体を焼く火は神聖な火だから、身体的な痛みは生まれないのだという。だけどかびすは燃えた体が痛いと言って泣く女たちの姿を知っていた。かびすが通っていた女子校にはいろんな女がいて、誰もかれも残らず焦げた匂いを染みつかせていた。
「燃やされるなんてまだましです。昔は舌を抜かれていたのですよ」
 焦げたスカートを抱いて教室の隅で泣いていた級友に教師がかけた声がやけに鮮やかに耳によみがえる。

 燃える世界を眺めるのに疲れると砂浜へ行く。浜には燃えるものが少ないからだ。電車を乗り継いでたどり着いた海岸には先客がいて、制服を着た女の子たちだった。学校の制服には男型と女型があるのですぐにわかる、着ている人たちがどちらを選んだのか。
 女の子たちはローファーを脱ぎ捨ててはだしになって波打ち際を歩いていた。今日みたいな波の穏やかな日は、仕事なんかサボって海を眺めているのに限る。かびすは自販機に並び始めたばかりの温かいコーンポタージュを買う。階段を降り浜へ近づいていく。プルタブを引き起こす。ぷしゅ、と音がする。缶の中で温められていた空気が外に飛び出してくる。
 波打ち際で戯れていた少女たちが手を取り合って強く抱き合う。かびすは一瞬ぎょっとするものの、少女たちから目をそらすことができない。見れば片方の少女のセーラー服が燃えている。若者の間で焼身自殺が流行しているというニュースが頭をよぎり、かびすは近眼の目を細めて目の前の出来事がいったいなんなのか見極めようとする。橙色の火はあっというまに毛髪に燃え移り、ふたりは砂浜の上を転げまわりながら見る間に火だるまになる。
「海に入って!」
 かびすは叫んでいた。少女たちは聞こえているのか、いないのか、燃えながら砂浜の上を片方が下になったり上になったり、炎はどんどん大きくなる。かびすは走り出す。
「誰か! 火を消して!」
 けれども砂浜には、少女たちとかびすの他に誰もいない。
 近づいてみると少女たちは、とても幸せそうに頬を寄せ合っていて、彼女たちを海につき飛ばそうと力を込めて踏み込んだ足が砂に埋もれ勢いを失う。はじめ橙だった炎も今は青く、髪も顔も体も、ふたりまるごと火柱に包まれていて、体は焼け落ちて骨だけが寄り添いながら砂浜に転がっている。炎の中で骨は爆ぜ、破片がどちらのものともわからなくなるまでまじりあい、白っぽい麹のような灰になった。

 手にしていた缶の中身を海に捨て、海水ですすぎ、中に少女たちの灰を詰めた。砂なのか骨なのか、それとも他のなんなのか、分からないものを両手で掬って缶に注ぐ。若いから再生が速いのか、缶の中であぶくが生まれ始めている。
 波打ち際のあたりでは、海水を浴びた灰からちいさな無数の女の子たちが形作られてゆく。少女たちはぞろぞろと裸で海に飛び出していく。
青白い火柱に包まれ燃え尽きた女が復活する現象について説明したがる人は山ほどいたが、いまだに定まった説はない。焼身自殺者の復活について、自殺に対する赦しなのだという人も、罰なのだという人もいる。
いつのまにか、たくさんの白い鳥が波打ち際を低く飛んでいる。灰から生まれた少女たちが、ひとりまたひとりと、鳥のくちばしで攫われていく。こんなにたくさんいて、たくさん死んでいくのだ。ひとりくらい持ち帰っても誰にもばれないだろう。
 手の中で缶がかすかに震え、飲み口にちいさな手がかかり、中から小指大の少女が出てくる。彼女たちを焦がした青い炎のことを、少女は覚えていないだろう。かびすは少女を手の平の上に乗せ、白いハンドタオルでそっと包む。産声はあまりにかすかで、集まってきた無数の鳥たちの声にかき消されてしまった。(おわり)

有料ゾーンに「おまけ」をつけました。京都文フリでペラいBFCまとめ本を作ろうと思っていて、その下書きです。20ページの小冊子を作る予定だったのに、現時点で20ページ埋まってしまいそう。落選作も入れたいのにどうしよう。よってこの原稿は没にして書き直す必要があるかも。

しかし書いてしまったものを捨てるのはもったいない。せっかく購入してくださった方へのお礼として公開しておきます。


Better than Fight&Chorus
 BFCという催しを知ったのはキタハラさんから教えてもらったのがきっかけだった。私たちはカクヨムで文学好きの女の子が主役の「熊本くんの本棚」/キタハラという物語を通じて出会い、カクヨムで地の文の多い小説を発表すると文学さんってバカにされるし、かといってがちの文学ファンからはライトすぎるって遠巻きに見られるし、いったいどこに我々の居場所があるんでしょうね~。みたいな会話を交わし傷をなめ合っていたときだった。キタハラさんはこの作品でカクヨムコン大賞を受賞し出版される運びとなるのだが、ネット小説の人たちの中には文学作品を毛嫌いする人たちがときどきいるみたい。私は実は娯楽小説しか読んできてなくて、文学のことには詳しくない。詳しくないけどなぜかエンタメを書くのが下手すぎて、文学っぽい娯楽作品を書いているという微妙な立ち位置の人間なのだ。キタハラさんも文学系の賞に応募してはエンタメっぽいと言われ、エンタメの賞に応募しては文学っぽいと言われてきたのだという。
 私はそのころ西崎憲さんのことも惑星と口笛ブックスのことも知らなかった。ただイベントのことを知ってしまったので応募してみようと思った。落ちた。普通に。えっ、恥ずかしい。
 くそ~、という気持ちで第一回のBFCを観戦しはじめた。いろいろトラブルがあり、二人繰り上がって出場になった。予選敗退の補欠で出場した人たちの作品を読んで、自分の作品が落ちたことに納得してしまった。「くされえにし」が好きだった。私の作品はこれよりもずっと下だろう、不出来だっただろう、ということがすっと腑に落ちて、イベントの成り行きを見守っていた。雛倉さりえ、大前粟生といった才能に出会って度肝を抜かれた。二回戦の美しさみたいなものはいまでもときどき思い出す。感極まってしまいそうになる。私の作品、全然文学もエンタメもしてなかったな……。なんていうか、舐めていたのかもしれない。読者のことも、自分のことも全然信頼していなかった。二回戦を彩った美しい森のことや爪を塗る男の子たちの胸の痛みを思い出す。作品の世界が自立して存在していて、圧倒的だった。おもねることや媚態を含まずただそこに存在していた。

 BFCのあとに心を入れ替え、というわけではないけど文学の公募に挑戦するようになった。上手くなっていく気はした。前よりよくなっている。落ち続けたけど書けるようになる体感はあった。体の傷の痛むところを掘ると物語が出てくる。物語ではないのかもしれない。埋まっている感情を掘り起こすように書いているのかもしれない。

 そのうち、はじめてかぐやSFコンテストの最終選考に残った。嘘みたいだなぁと思って今でもあんまり実感がない。結果はダメだったけど、というか多分得票数も一番低かった気がするな。異形頭を描いているイラストレーターさんの作品の中で、地球が頭部にすげかわっているキャラクターのイラストがあり、直前まで頭部のすげ替えをテーマにしたSFを書いていたのでそれにも引きずられていたのかもしれないな。
 未来に学校は存在してほしくなかったから学校の話は書かなかった。知識を受け継いだり研究したりする機関としては残っていてほしいけど、今みんなが通っているような学校は残っていてほしくないな。未婚の女が養子を迎えている世界。子供が学校以外の経験で大きくなる世界。

 BFC2に出れたのもたまたまなにかが間違ってそうなったんじゃないかと思っている。自分では出れると思っていなかった。夢だったのでは? 嬉しかったけど、驚きのほうが大きかった。セーラームーンのころから数十年経ったけど、女の子たちはまだまだ全然自由でなく、公然と差別が行われている。だから私は嘘でも作品の中では、女の子だけで完結した世界を組み立てる。現実にありえない風景を描くのがファンタジーなら、女性の地位を向上させるフィクションもまたファンタジーだし、女同士の愛も、男同士の愛が祝福される世界を描くのもまたファンタジーだ。よってこの作品の中に登場する魔法の力はややネガティブな意味づけで描かれている。現実を理想に転じる簡単な方法がいくらでもあるのに、毎年バージョンアップする夢と魔法を売り続ける資本主義社会への反抗文でもある。

量産型魔法少女 

お金をもつと人は変わる。と、しおちゃんは言った。お母さんは今の男と暮らすようになって変わったって。そうかもしれない。わたしはこうやってしおちゃんと家に置き去りにされることが多くなったし、これはつまり、あからさまに邪魔者扱いを受けているということなのだろう。
「あの子、あんたのことまだ秘密にしてるん」
 そうみたい、と目だけでうなずくと、しおちゃんは目だけで、あほちゃうか、と語ってみせた。わたしは否定の意思も肯定の意思もありません、という意味を込めて、そっと視線を外した。わたしはとっくにイヤホンをはめてタブレットで自分が作った曲の編集をしている。それに気づいたしおちゃんがわたしをじろりとにらんだ。口がパクパク動いたのが見えたけど、なんて言っているのかはわからなかった。
 わたしたちの暮らす家は狭く、木造で音漏れも激しい。わたしは打ち込みで地道に音源を作っていて、完成した作品をネットの海に放流しては、薄い反応に悲しんだり、否定的な意見にうるせぇ死ねと唸ったりしていた。
 しおちゃんは、画面に向き合うわたしを見つけるたび、また金にならんことをして、とか、もっと勉強し、勉強。と言ってくるけど、気にしない。勉強は中一の一学期で「向いていない」と悟ったし、勉強すればお金が稼げるようになるというしおちゃんの理屈もよくわからない。
 その日、久々にお母さんが戻ってきた。ありったけの荷物をカバンに詰めて、明け方にはまた男のもとに戻るのだろう。これを繰り返すうち、いつか母さんはわたしを完全に捨ててしまう。そんな気がする。
「りのちゃん、こないだの曲よかったねぇ」
「うん、お母さんわたしのアンチとコメ欄でバチバチするのやめてよ」
「なんで? いいやん」
「ほっといてよさぁ、ああいうのは」
「えへへ、だって」
 だってじゃねぇよ。こどもっぽく笑うお母さんを見ていると、自分が十四歳の女の子だということを忘れてしまいそうになる。小言ばかり言うしおちゃんの気持ちがわかるような気がする。この家の中に、大人の人はしおちゃんだけだ。お母さんとしおちゃんは幼馴染で、大人になってからも一緒に暮らしていた。わたしにはお父さんと暮らした記憶がほとんどない。わたしの家族は、しおりちゃんとお母さんだけ。
 お母さんはいつだって、呪文のように、りのちゃんはなんにでもなれる。どこにでも行ける。というのだった。それはなんだか祈りに似ていた。
 夜になり、和室の薄い障子を隔ててしおちゃんとお母さんはお酒を飲んでいる。わたしは眠ったふりをして、お母さんとしおちゃんの会話に耳を澄ませる。
「しおりちゃん年取ったねぇ」
「あんたもな」
 ふたりはお酒を飲みながらじゃれあって、いつまでも昔の話をしている。そのうち酒臭い息がまじりあう。「しおりちゃん、昔私が誕生日に買ってもらったムーンスティック、壊したん覚えてる」「そんなことあったっけ」「うん、開封初日にお月さまのところ、ぽっきり折ってしまったんやで」「あったかなぁ、そんなことも」「私が泣いてたらさ、お母さんさ」「うん」「おもちゃ屋さんまで車出して、しおちゃんのぶんまで買ってきてくれたね、ふたりでセーラームーンの変身なりきりセット着て写真撮ったん、おぼえてる?」「今、思い出した。わたしな、ほんまはな、ほのかのことがうらやましくて意地悪してるわけじゃなかったんよ」「ほななんで?」「だってあんなん嘘やから。嘘のおもちゃやから。あんなん持っても魔法なんか使われへんし、髪の毛も伸びへんし、服だって変わらへんやん。やのに大人がそんな嘘をこどもに持たせるのが嫌やった」お母さんが笑っている。こどもみたいに笑っている。お母さんの笑い声の陰で、しおちゃんの悲鳴みたいな引き笑い声が聞こえる。笑い声はそのうちささやきあう声に戻って、ひそひそと交わされる声は嬌声に代わっていく。わたしは眠っているふりを続ける、そのうちふりは本当になって夜の暗さが意識の暗さに重なる。わたしは死んでいるのか眠っているのか自分でもよくわからない。よくわからないうちに目が覚めるから朝が来たのだとわかるけど、いつかそのうちほんとうに、死と眠りの区別がなくなる日が来るのだとおもう。

 朝になった家にお母さんはいなくて、代わりにしおちゃんが朝ご飯を用意してくれてる。しおちゃんは子供のころにお父さんが死んで、近所に暮らしていたお母さんと姉妹同然に育った。しおちゃんがわたしを見る目はとても悲しい。その目は決して手に入らないものを求める目だった。しおちゃんがほしかったほんとうの魔法の力。何度傷ついても立ち上がる、だれからも愛される魔法少女のちから。
 しおちゃんはお金をもつと人は変わるって言うけど、わたしはそれと反対の考えを持っている。しおちゃんがもっと裕福な子供時代を過ごしていたら、少なくとも今みたいに、金、金、金、と唱え続ける人生を送らなかっただろう。わたしはなぜか、しおちゃんだけは自分を置いていかないのではないかと感じている。愛情でも義務感でもなく、あきらめとして、彼女はわたしを養い続けるだろう。行き場のないわたしを手放さない、しおちゃんは、ぜったい。だからわたしは、自分の手で、足で、魔法の力を本当にしなければならない。どこかうんと遠い、ここではないどこかにたどりつかなければならない。たとえそれがどれだけかなしくて、みじめな道のりだったとしても。
(了) 

 自分の良さとか強みがわからない。苦しいなぁと思いながら書き続けている。書き終わった瞬間は少し楽しいし少し救われる。だからつい続けてしまう。

 それで今年はうっかりジャッジに応募してしまったりして。毎年応募する人が少ないから出場できてしまうんだよな。忘れてて、BFC3にはとうとう佐々木倫としてではなく阿瀬みちとして出てしまった。心の準備ができていない。落ちた小説のほうができが良かったと思ったのに、ジャッジの採用基準はそういうの関係なかった。
 BFCをきっかけに批評とは何かを考えるようになった。私が教科書にしたのはスーザン・ソンタグの『反解釈』だ。強迫観念とも呼ぶべき知識への執着。比較対象し文学史の中に作品を位置づける手つき。フロイト精神学派亜流の見立てと解釈に対する反発! 作品を上手く読む技術と作品を評価する技術は別軸だと考えている。読書感想文は作品の寄り添い方や並走方法を教えてくれるが、評価するとはどういうことかを教えてはくれない。
 かといって私もまだ評価することの何たるかがよくわからない。わからないが、文章を読んでいて敬服することはある。感動の根源を、メカニズムを他者に説明出来たら、どんなに良いことだろう。あるいはなぜ感動しなかったかをはっきりと説明出来たら。それが私の目指す批評であるように思う。
 問題は、受け取り手の事情をどのように評価に絡めるか。感動を軸に含めるとどうしても自分のコンディションや体験、経験に触れないと十分良さを説明できない。小中学校で習った感想文の技術では、読むことに対する評者のコンディションを問われない。今となっては、問われるべきだ、説明すべきだと感じる。しかしどうやって? まだわからない。わかりたい。

社会構築物としての小説を読む

 ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』の中で明らかにしたように、ジェンダーというのは社会的な構築物である。小説は様々な社会的コードを利用し・共栄し・ハックし・書き換える形で書かれている。BFC初回の蕪木Q平『来た!コダック』の語りは未熟で社会科されていない少女のコードを利用して書かれているし、読む方もそれを利用して読み解く。コナンドイルは『来た!コダック』の少女のように語らない。絶対に。
 今日使用している漢字には「嫁」「嫌」「好」など当時の人たちの社会構造がそのまま現代に受け継がれている。女偏の漢字と比べると男偏の漢字で一般的に使用されているものは「虜」や「甥」などわずかだ。男がわざわざ名指されるとき、捕らわれた男であったり生まれたばかりの名のない親類の男であったり、他者として彼らが「わたしたち」の前に現れるときだ。普段「男たち」は一人の人間として、人として社会に受け入れられている。グレイソン・ペリーが 『男らしさの終焉』というエッセイのなかで「デフォルトマン」と名付けたように、一人前の男は自己弁護や説明を求められない。大文字の主語を使って社会に向かって語り掛けることすら許されている。
 歴史という単語のなかにHis storyが隠れているというのはよく言われていることだが、文学は名もなき人たちのための場であってほしい。何物でもない人たちが己を規定する言葉を、言葉を模索する過程を見極めたい。病んだ男の、仕事のない、居場所のない、連携する女の、対立や和睦や融和を、文字の中に確かめたい。誰もがいずれ死にゆく運命ならば。あなたは何を書き残し、語るのか。

Boys boys boys!
たまに女性表象の扱いについてキレている。キレると「傷ついた……誰も傷つけたくないのに」という心優しい青年たちに傷を負わせてしまう。知るか。と思っている。私の怒りは私だけのもので他の誰のものでもない。自己の境界を簡単に他人に明け渡すんじゃない。創作以前の問題だ。罪悪感で議論を濁らせるのを辞めろ。単なるノイズでしかない。

 思い返せばずっとこうだったな。慰められたり共感されるとキレる子供だった。生まれてくるときに人の心を落としてきたのかもしれない。共感の不自由なキャラクターは女性ジェンダーと相性が悪い。私の創作の根幹はこのずれにあるように思う。
 共感力! 退廃と思考放棄の象徴だ。

 かといって他人の創作物にまったく共感しないかと言われると、そうでもない。ただ常に共感を生じさせるメカニズムについて思考を働かせている。共感の心の動きが現れるたび、筆者と私の間に似た経験が共有されているのだろう、そのコアはどこにあるのだろう、と探っている。隙あらば換骨堕胎、したい。

 違うな、ほんとうは私だって共感できる相手を探しているのかもしれない。この場合私の共感能力ではなく、他者と個人の間に横たわる差異だけが問題になる。こっちの結論の方がいくらか救いがあるのでこっちのほうがいい。

Girls
 でも冷静に考えたら怖いな。私が私の名において女性表象について異議申し立てを行うことが女性全体から異議申し立てを行われているように感じてしまう個人のことが。
 このような経験が積み重なりいつの間にかフェミニズムに関するZineを作っていた。ソンタグもレズビアンだし初回にZineのテーマにしたバトラーもノンバイナリーを公言している。女性の身体をもったノンバイナリーに近いあり方の人たちに惹かれる。シンパシーを感じる。言葉の根底に自分と似たものを感じられる。だから私も本心のところでは、他人に共感できるししたいのだと、そう思いたい。

 実際のところ婚姻制度の理不尽に関して考えた結果フェミニズムに接近した。夫の実母に対する恨みも突き詰めると女性ジェンダーに期待されるケア的な役割を離婚した女性が果たせなかったことへの恨みである。夫は私を母親に見立てて何らかの関係の再演を試みている。母親に対する人々の執着が理解できない。不思議だ。愛されなかった事実が自己の欠損であるように感じてしまう人々の想像力にいつも驚かされる。私は共感されることを目的に文章を書けないだろう。私は私のためだけに書き続ける。評価されるかどうかはわからない。

 共感は下手だが感想は嬉しい。人々の見方はいつも新鮮で新しい発見を授けてくれる。寄り添えないままでそばに置いてくれる人を探したい。私の文章が誰かの近くに置いてもらえることが理想だ。

Girl's skin
 女という表象から任意に性的な魅力が剥奪/付与される文脈の流れ。評価される枠組みから逃れられないのか? Z世代の女たちが顔を加工するでもなく隠し始めたという日経Extendの記事についていたコメント。婚活サイトを利用している男の「女性は顔出しNGでも顔の露出している男性を求める。女性優位の市場だ」という主張。全く文脈が共有されていない。断絶している。そのまま途切れておいてほしい。そっとしておいてくれ。
 品定めする/されるという枠組みから逃れるために加齢があるならそれは救いだ。文学界に非実在青少年の主体性を書いた小説を送った。どうにかなったらいいなと思っている。

 女ほど好き勝手に生殖の枠組みから隔離/組み込まれている存在も珍しい。男の生殖能力は創作の中で過剰に強調されている。生殖能力を疑う言説はそのまま彼の評価を損なうために作用する。人口抑制政策もDV男のパイプカットにまでは口を出せない。初対面の男の睾丸のサイズを見定める女はいないのに初対面の女の乳房や臀部に関して一過言ある男は多い。逆説的に、彼らは恐れているのではないか? 種なしとののしられることを避けるために女の肌や外見について口やかましくがなりたてるのではないか? 雄ではないという烙印を押されることから逃れたいのではないか?
 メスである私たちも 男に興味がない女ほど自分の立ち位置を確保するようにオスを追いかけるふりをしたがる。結局のところ私たちは他者の尊厳を踏みにじってでも集団の中に安住していたい、そうすべきだと刷り込まれている。

Holiday
  勉強が嫌いで大学にはいかなかったのに、結局勉強がしたくなって放送大学に入学した。いつ産んでいつ学ぶかくらい自分で決めたかった。誰かに決められるのもデザインされるのもまっぴらだった。人が休むあいだに働き、人が働いている間に遊びたい。ときどきネットで大学に行かなかった女の子のブログを読む。あなたはとても賢い。だから大丈夫、いつでも学ぶことはできるし、いつでも自由になれる。少年少女の翼を折る枠組みを私は憎んでいるし、それらを亡ぼすために創作している。個人の目を濁らす要因を理性の灯りで照らす。目は閉じていても光は明るい。まぶたがあるって素敵なことだけど、でも。

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