#文体の舵をとれ #文舵練習問題その6

 由美子はスタジオの壁面を飾る古い鏡の、つもりに積もった汚れを磨き上げることに腐心していた。完全に綺麗にならないことはわかっていた。あれからもう何年経ったのだろう。バレエ教室をしまって何十年にもなる。教えなくなった後も、人に貸すことで収入を支えてくれていたスタジオだった。この建物のおかげで離婚した後も二人の子供を育て上げることができた。今思うと、何もかも、すべてうまくいったとはいかないまでも、十分に恵まれてきたのだ。由美子の人生の粗をあげつらう人たちはもう、みな由美子の目の前から消えていた。それでもなぜか、いまだに自分の歩んできた軌跡を認めきれないところがあった。
 巨大な鏡の継ぎ目には錆が浮き出ていた。バーに触れながら、力を込めて精いっぱい擦った。目を閉じると生徒たちの熱心な顔が、様々な顔が浮かんでは消えていった。「先生あのな」「わたしな、留学してもっと踊りたい」両親の離婚で二月の発表会を待たずに辞めるはずの香奈が言った言葉が耳を引き裂いた。何度も亜由子の母親と話し合った。父親のもとに出向いたこともあった。結果は変わらなかった。香奈は教室を去り、留学の希望もかなわなかった。数年は手紙のやりとりがあったが、それもいつしか途絶えた。
 あの時もっと自分にできることがあったのではなかったか。知らず知らずのうちに由美子はガラスを拭く手に力を籠めすぎていた。いつしか鏡面はひび割れ、ぴきぴきとヒビが広がっていった。うっすらと痛みの伝う指先を見れば、乾いたしわだらけの指に血液がにじんでいた。由美子はかぶりを振り、濡れたぞうきんをバケツにしまい、鏡の前から離れた。スタジオは解体し、孫が遊びに来られる小さな部屋を作る予定だった。窓の外を見れば薔薇の茂みが旺盛すぎる勢いを見せていた。四十年間伸びに伸びた薔薇の茂みだった。株本はしわがれた一本足のようだ。朽木の色をしていた。
 香奈が最後に教室を去るとき、由美子はミニバラのポットを贈った。あわいクリームとオレンジのグラデーションの薔薇だった。「ありがとう、嬉しい。大事にするわ」「練習、続けてな」「うん。うち踊るん好きやもん」その後香奈は母親の実家を頼って山陰地方に越していった。薔薇を見るたび最後の別れを思い出した。辛い気持ちが募り、いつしか剪定するのを諦めた薔薇の株は弱り、葉ばかりが茂った。それでも律儀に毎年二回、いくつかの赤い花を咲かせているのだった。


2021年8月31日3時31分加筆 同一の物語を同一人物の一人称・現在時制で

 鏡に映った自身の姿に目を留めないように一心不乱に鏡面を擦り続ける。埃がしつこくへばりついた汚れは研磨剤で擦ってもなかなか落ちない。それでも気を抜くと年老いた自らの表情が、たるみ切ったその表情金が不意に真正面から視界に飛び込んできて、どっと疲れが出る。昔はこうではなくて、もっと勢いがあって、若々しい、もちろんそれは私だけではなくこのスタジオも含めてのことだ。今でもありありと思い出せる。最大二十七人の生徒が同時に踊っていたこのバレエスタジオで、先生、先生と慕ってくれる幼い生徒たちの顔。どの子のことだって忘れることができない。自分の娘たちとはもっとちがうタイプの感情が、生徒たちの表情の上に浮かぶ。「先生、あのな」「わたしな、留学してもっと踊りたい」辞めていった香奈の声が耳元で蘇る。ごめんな、と思わず口をついて出そうになる。バレエが大好きな活発な子。いつでも踊り足りなそうにしていた。両親の離婚で、二月の発表会を待たずに教室を去ることになった少女。「この子には才能があります」両親と話し合った記憶が溢れてくる。何度も、ときには相手の家に出向いて対話の機会を設けて、奔走した記憶。力及ばず、香奈はバレエを続けられない。
 思い出したくない。力をこめるあまり、鏡面にひびが入っていた。ヒビをなぞった指の腹に赤い血だまりが浮かぶ。かぶりを振って鏡の前から離れる。スタジオは解体し新しく小さな部屋を作るつもりでいる。孫たちが遊べるような、日当たりのいい部屋を建てる。
 窓の外を見る。旺盛すぎる薔薇の茂みが窓ガラスを半分覆っている。四十年前、スタジオの完成と共に植えた株は葉ばかりが茂っている。
 香奈が教室を去るとき、私が贈ったミニバラは今も咲いているのだろうか。クリーム色とオレンジのグラデーションの美しい薔薇。それとも香奈はもう薔薇を枯らしてしまっただろうか。「きれいやな」香奈は笑う。「ありがとう、大事にするわ」「練習、続けてな」欺瞞だ。私の言葉なんて何の役にも立たないのに。香奈はそれなのに笑顔を向けてくれる。いつもそうだ。「うん、うち踊るん好きやもん」。なんて可愛い、けなげな子なんだろう。香奈はその後母親の実家を頼って、山陰地方に越したのだという。薔薇の花を見るたびに別れを思い出す。いつしか世話をしなくなり、それでも株は青々と葉を茂らせているし、株本はほとんど木のような質感をしている。春と秋に二回、赤い花をいくつかつける。工事にともなって、この株も伐採されてしまうだろう。私は赤い花の一つにそっと手を伸ばす。たくさんの心残りと決別して、私は孫たちと新しい生活を始める。うまく愛せるだろうか? 今度はもっと、上手に愛することができるだろうか?


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