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じんせいは孤独と同義なのよ

 子供のころから絵が好きだった。落書きばかりしていた。父は親バカなので「見てごらん、この子はきっと才能があるよ! 表情や持ち物の細かいところまで描きこんで!」と言ってくれた。でもあんまりうまくなれなかった。おとなになった今でも絵を見るのは好きで、新しい画材とか色とか描き方に出会うとハッとする。好きと言うのはつまり、繰り返し刺激を得ることでもとの情報に慣れ、新しい刺激を求める動機のことを言うのだと思う。

 描かれた絵を見るとわかる。なんとその人の目の優れたことか、と。遠景をいろどる鳥の姿勢の正しさ。色をとらえる感性の過敏さ。光に対するあこがれ、光を透過する素材への愛着、自然が生み出すパターンへの執着、人間への慈しみ、関心、愛。あるいは冷酷なまでの、構造を抉り出す指。私は平凡な目を持っている。普通だから理解できる遠さがある。

 私が絵を描くなら。もしも描いたとするなら、私の絵は多くの意味を、線を、解釈を、必要とするだろう。なにかを描かなければ私は何も描けない。意味ありげに誰かに差し出すことしかできない。

 夫は目がいい。バカみたいに動体視力がいい。正しい瞬間に正しい構図を見ているものの中から抜き取ることができる。夫の父もカメラの仕事をしていた。
 夫の子供の頃の話。たとえば飛ぶ昆虫、トンボとか蝉とかカマキリ、バッタが飛ぶ様子を、いかに正しく捉えられてその飛行するさまを理解できたか。と言う話を聞いているだけで私は気が遠くなる。見ている映像のコマ数が違う。処理能力が違う。夫は道具なしに水平と並行をとることができる。正しい線を引くことができる。

 絵の前に座るといつも泣きたくなる。その人の孤独が、遠さが、押し寄せてくるから。そこからあまりに遠く遠く離れたわたしの、ありふれた目の、ありふれた感性を、思い知るから。


 でもここだけの話、夫は自分の孤独についてあまり深く知らない。気がついてしまったが最後なので、黙っている。

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