うめぼし
白米の炊けるときのにおいは年頃の女の子の匂いに似ているとおもう。そのせいか、私は白米を食料としてあまりうまく認識できない。あまくてみずみずしくて、透明で性的だから。
梅干しは白米と比べるとシックで落ち着いた色香を放っている。バラ科の種子の核から放たれる芳醇な香りは他の何にも喩えがたい。香りにつられて未熟な果実や種子を口に含むと中毒を起こしてしまうかもしれない。危険な色香だ。青梅のみずみずしさだけを閉じ込められたらいいのになぁ。と昔の人が考えたかどうかは知らないが、カリカリ梅は青梅を塩蔵した食品である。旨い。梅は良い。香りも味も食感も良い。南高梅は皮が薄く果肉が分厚いセクシーダイナマイツボディ。昔ながらの小梅も捨てがたい。親しみやすく気立ての善い町娘と言った感じか。
そして紫蘇梅。高貴な香りをまとった夜の女王という感じがする。まず見た目から言って派手なのに深みのある上品な装い。そして爽やかな青紫蘇に比べ、やや花のような香気と虫から避けられるための鼻の奥をツンとつくような菊に似た香り。近寄りがたい。紫蘇と言うと梅以外の用途も思いつかない。とっつきにくいハーブと言う印象がある。それが梅と一緒に漬けられることでどうだろう。鮮やかに変身し奥行きのある香りを与えてくれる。
目にも鮮やかな紫蘇梅ばかりは白米に乗せて口に含むのが良い。炊き立ての白米の香りと湯気に乗って広がる紫蘇の香り。高貴(香気とかけているわけではない)。ノーブル。果実に加え花の香まで立ち込めたらそこはまるで楽園のようだ。塩味がぴりりと舌の奥を引き締める。
子どもを持ってから、若い人にも無理をせずに寝てくれ、と思うようになった。子に親が望むことなど、腹が減ったら食い、適度に寝て、快く暮らしてくれ、程度である。若いころの苦労は買ってでもせよ、などと言うけれども、若いからこそ無理しか知らない、という場合も多いようである。全国の青少年、体を壊す前に寝てくれ。と思っているあいだに、Twitterでも他人に寝ろ寝ろと言って回る人間になってしまった。親になるというのは恐ろしい。白米の香りに地味に興奮していたような人間ですら、思考・行動パターンが変容してしまう。以前の私では居られない。しかしそれは生きている限り常に、誰しもそうではないのか。
反解釈を読んでいてコクトーのナルシシズムとブレッソンの自然主義とでもいうべき違いに触れられていて驚いた。作家は解釈をすべきではない、作品に解釈の余地は残すべきだ。そう思った。
求めると与えられる、という格言は、答えに先立って問いを立てるべきである、という意味なのではないか、と思う。問いかけない限り答えに出会ってもそれと気がつくことができない。私たちは砂漠の砂と同じく、毎回あらゆる可能性に出会っている。普段と異なった答えに気がつくかどうかはひとえに精神的余裕にかかっている。自らへの問いかけは、我々に空白を意識させるのだと思う。答えのはまる空白の存在を私たちに思い出させるための問い。問いを立てること、立て続けること。軋むパズルのピースの悲鳴に耳を傾け続けること。生きること。空白を埋めるように物語ること。空白を知らせるように語ること。生きる。
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