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聖アンナと聖母子:ダヴィンチコード

久々の絵画分析、今回は聖アンナと聖母子をやっていく。
モナリザ、洗礼者聖ヨハネと共に、レオナルド・ダ・ヴィンチが最後まで持ち続けた作品が「聖アンナと聖母子」である。
今回はここに含まれるコードを見ていこうと思う。

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もとはサンティッシマ・アンヌンツィアータの祭壇画として依頼されたものだった。マリアの母である聖アンナ(奥)、マリアとイエスという、モチーフとしては親子孫三代の家族絵となる。聖家族をテーマにした作品としては、他にミケランジェロやラファエロのものも有名だが、そこではマリアの夫であるヨセフ、マリア、イエスと登場人物が異なっている。

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人物の絡み

ミケランジェロの聖家族では、マリアはヨセフの脚にもたれかかるようにして座っている。レオナルドの方でも、マリアは聖アンナの膝の上に乗っている。夫ならまだわかるが、大人が母の膝の上に乗るというのは、中世でも類を見ない構図だ。

年齢

次に顔を見てもらいたい。
アンナと夫ヨアキムには長く子供ができずに、老齢になってからマリアを授かったと言われるが、聖アンナはとても若々しく、マリアと同じ年齢層に見える。シワや白髪などもなく、滑らかな肌をしていて首にも皺がない。
レオナルドが描いた「荒野の聖ヒエロニムス」や「東方三博士の礼拝」を見ても、老人には老人らしく皺、皮の弛みなどが細かに描かれている。
聖アンナは異質的に若く描かれていると言えるだろう。

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下絵のポージング

ここでダビンチが書いていた下絵を見てもらいたい。
マリアはこの下絵においても、聖アンナの上に脚を乗せている。
注目してほしいのは聖アンナの腕だ。
真っ直ぐに天を指している。
このポーズ…そう「ヨハネ」がしている祝福のポーズだ。
また、ここではイエス以外にもう一人幼児が描かれており、その存在は消されてしまった。この存在はヨハネであると言われている。

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酷似している洗礼者ヨハネ

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レオナルドの描いたヨハネ。なんとも中性的だ。
ここまで来たら皆まで語る必要もないかもしれないが..
そう、このヨハネ。聖アンナに酷似している。
聖アンナは右を向いているので、反転して角度を重ねてみた。
すると、やや顔の角度の違いはあるものの、まるで同一人物が眼を開けたように一致したのだ。

静止画で顔のパーツを確認してみる。
頭頂の髪の分け目、眉のスタート、目と鼻先の位置、口元の特徴的な口角。
全てが一致しているのだ。

ヨハネとアンナ 顔のパーツの分布

レオナルドは非常に写実的な表現と観察力が特徴的だが、ここまで寸分違わぬ配置をしているのは、かなり意図的なものを感じる。
念の為、AIでも判定をしてみた。結果は..

これはもはや同一人物と見て疑いはないだろう。
ただし、元々の下絵や巌窟のマリアで描かれている通り、ヨハネはイエスと同年代なのだ。年齢が合わない。

ヨハネは、マリアの親戚のエリシェバの子とされる。イエスと同様事前に天使からの誕生の告知を受けている。マリアが若き母であるのに対して、エリシェバが懐妊したのは高齢になってからであった。
イエスのために道を切り拓き、導く存在となった。
死人の中から甦る「復活」の経験者とも言われているが、最後はヘロデ王により斬首される。

考察

以下は完全に個人的考察となる。
間違いなく、男を女として描くことで、表向きにレオナルドは主題を隠していたと言えるだろう。
ここで振り返りたいのが、マリアを描いたもう一つの絵である「岩窟の聖母」だ。

wikipedia 岩窟の聖母

金髪のウェーブの華奢な少女のようなマリアだ。
共に描かれた赤ん坊の大きさも、さほど変わりはないので、同じような年頃のマリアであるはずだ。
聖アンナと聖母子のマリアと比べると全く別人であることがわかる。

上記を加味すると、描かれたのは「聖アンナと聖母子」ではなく、「ヨハネの聖家族」である可能性が高いのではないだろうか。
この同一人物が描かれた2枚の絵画を彼は生涯手放さなかった。
誰かは断定できずとも、この中性的な容姿の人物は、レオナルドに感銘を与えた存在には違いないだろう。

グノーシス主義のエッセンス

彼をヨハネという視点で見た場合、洗礼者ヨハネを開祖とするマンダ教にレオナルドが触れていた可能性もあり得る。

マンダ教(Mandaeanism)における洗礼者ヨハネは、神秘的な啓示者であり、伝説上の開祖とされている。発祥の地はヨルダン川流域。

またグノーシス主義では、「バルベーロー」という両性具有の女性神格もあり、「最高の女性原理」と言われる。この聖なる存在と言われる「アイオーン」は、至高神が水に映った自己影像から生まれている。
中性的な容姿の視点で言うと、ヨハネもモナリザもこれに近いものがある。

レオナルドはこういった原始キリスト教の流れに触れる機会があり、洗礼者ヨハネやバルベーローのエッセンスをテーマに隠していたのではないだろうか。

また時間を見て考察したいと思う。

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