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不思議なものを信じて何が悪いのかという話

不思議なものを信じない人は、再現性を重視している。

すべてのものには根拠があり、再現性のある原因と結果をもたらす作用の連続によって世界が説明のつく形に成り立っていると信じている。

◯◯なのは✕✕だからだ。
朝日が昇るのは、地球が自転しているからだ。
音が聞こえるのは、空気の振動を鼓膜が捉えるからだ。
という具合に。

この原因と結果の組み合わせについて、常識的でない、根拠や再現性のない主張をしてしまうと、異常者と見做される。

宇宙が今の形をしているのは、神がそう作ったからだ。
宇宙人が世に現れないのは、身を隠して観察しているからだ。
など。

もし仮に、これらの主張に再現性があり、常識的に納得できる根拠が見いだせたなら、それは最早異常ではなく、ただの常識となるだろう。

神について語るのが非常識なのは、再現性をもって誰にでも見ることのできる神が、現実として存在していないからだ。

もし誰にでも見ることの出来る再現性のある神が居たとしたら、人は神の実在を疑ったりしないだろう。

例を挙げれば、かつて天動説が信じられていたのは、地球が天体の一つであるという再現性のある根拠を示すことのできなかった時代の人々にとって、そのほうが自然であったからだ。

地球が天体の一つであるという前提で見た世界に再現性があったため、天動説は地動説に覆された。

人はより詳細な根拠に基づいた確かなものを好むらしい。

世界を理解して、制御下に置くことで安定した社会を築きたいのだろう。

しかし、その圧力は過度に働いている。

一般常識から少しでも外れた考えを、否定し、弾圧してしまう。

例を挙げれば、一般的な現代人の色覚は光の赤緑青の知覚をベースとした3色覚であるが、世の中には4色覚を持つ人間も実在するし、少なくない数の人が2色覚でもある。

3色覚の人間にとって、4色覚や2色覚の世界は異常に映るだろう。しかしながら、彼らの見ている世界もまた、彼らにとって再現性の高い同じ見え方をしている唯一の世界である。

更に例を挙げるなら、ヘビの仲間はピット器官という熱源を感知する感覚器を持っている。彼らには熱がある程度見えており、彼らはそれらがあって当たり前の、常識的な、再現性のある彼らの世界を見ている。

分かるだろうか?

ここからはただの空想なのだけれど、もし死者の霊を感じ取る器官を持った生物が、いつでも再現性をもって死者の霊を観測できてしまったとしたら?少なくともその生物にとってそれは再現性のある、ただの現実世界なのではないか?

もちろん、色覚や熱源と違って、死者の霊を感じ取るセンサーなど開発されていないし、その生物の主張が正しいとする科学的根拠など無いのだから、現時点でそれは非常識な妄想と断言するしかない。

しかし本当にそこに、未知のなにかを再現性をもって感じ取ることの出来る存在が居るとしたら、それを幻と断言できるだろうか?

更に発想は飛躍するが、逆に言えば、人類の大半が再現性のないはずの幻を再現性を持つ形で体感できるようになってしまったら、それは現実と何が違うのだろうか?

いや、人類の大半などと言わずとも、あなたと、あなたが接触する殆どすべての人が幻を見る方法を見つけて、幻を信じるようになってしまったら、少なくともそのコミュニティにおいて、それは現実と何が違うのだろうか?

話を少し戻すと、一般的な現代人にとって、4色覚やピット器官を持つ感覚は想像することしかできず、実感できない。

ところで、我々がこの世界をより「正しく」感じ取るためには、より多くの感覚器官があれば良いのだろうか?

我々の見ている世界は、4色覚を持つ人よりも劣った、間違った世界なのだろうか?答えは否だろう。

ならば更に考えを進めて、視覚や聴覚を失った世界は、より劣った間違った世界なのだろうか?というと、これも否だろう。

たとえ五感の全てを失ったとしても、その存在にとって見えている世界は、劣ったり間違っていたりはしない。

するとどうだろう?感覚器官など一切持たなくとも感じられるものだけが、本来正しい世界であるといえないだろうか。

五感というものそれ自体は、第4色覚や熱源感知器官と同様に、現実世界を何らかの側面で切り取ったオプション的な見方だ。

再現性のある見方、科学的に正しいと判断できるセンサーは、現実の切り取り方によって無数に考えられる。

科学的根拠があるから再現性があるのではなく、再現性を見いだせる見方を見つけてそれを科学と呼び、正しい知識として広めている。

科学的には、センサーを増やすほど確度の高い情報が得られる、ということになるのだろう。

しかし先程考えたように、五感を失ってしまっても感じる世界が間違いになるわけではない。

つまり、これが最終的に言いたかったことである。

科学的に再現性のあるセンサーがないことは、その感覚が間違いであることを決定づけない。

現代の科学的な装置で確認できないことは感覚が間違いであると断定するに足る根拠ではない。

本当の世界は五感を失った先にあるもので、感覚器官を無数に増やした先にあるものではない。

だから、人は自分の感じるものを信じて良いと思う。

根拠より先に、自分の中のセンサーですら無い何かが感じるものを信じても良いと思う。

ただし、科学的にも正しく見えている物を見えないと言ったり、無闇に疑うのは間違っている。

センサーの数が多かろうと少なかろうと、それで捉えた世界は間違いなく世界の一側面なのだろうから。

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