天才は如何にして凡才に殺されたのか 第一話 (全3話)

薄暗い路地が湾曲する。
カビ臭い湿気が体の表面を撫で回し、明滅する電灯が小さな猫の死骸を照らす。足元には無数の活字が砕けて散らばり、少し重心をズラすと不愉快な音を立てて崩れた。
路の向こう側では明るく綺羅びやかなネオンが騒がしい音楽と共に煌々と輝き、行き交う人々は同じ方向に顔を向けている。彼らの視線の先には奴がいる。冗談みたいなつけ髭にタキシード、仰々しい仕草で揚々と歌う男。決して上手くはなく、調子のいい言葉を並べた男の歌は、多くの人間の興味を惹き付けている。 届かない。奴の元に、俺の手は、感性は、この鬱屈とした羨望は、届きはしないのだ。
やがて奴は懐からアレを取り出すだろう。
そして奴を囲む人々はそれを手に取り驚嘆と称賛の声を挙げるに違いない。

「俺も持っている」喉まで出かかった言葉は口のなかで塵と消え、手を掛けた懐のそれはボロボロと欠けていく。
一歩、前へ出ようと踏み出した足は溶けた水銀の様な毒に沈み込み、俺自身を呑み込もうと引きずり込む。
どうやら向こう側ではパレードが始まるようだ。


荒い呼吸に目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。

ここ数日、毎日同じ夢を見る。同じ悪夢に魘されている。
異常に渇いた喉が古い床板のように軋んだ。コップに溜まったぬるいコーヒーを一気に煽ると胸の奥で心地の悪い苦味だけが残る。遮光カーテンの隙間から射し込む太陽は弱々しく、重すぎる瞼に負けて再びベッドに倒れ込んだ。
携帯電話にはいくつかの着信があったが、反応する気にはなれない。再び意識が遠くなる頃には、気持ちばかりの罪悪感すら、怠惰な睡魔の前になす術無く消えていた。

世間一般に使われる「天才」という言葉は本来的非常にデリケートな言葉だ。

使い方次第で、当人の血の滲むような努力を踏みつけにすることもあれば、力及ばない者の心をへし折ることもある。ただ、この世には本当の天才がいることも事実だ。
およそ普通の人間には成し得ない発想力を持ち、それを形にする技術を持ち、万人を救い、評価され、称賛される者は確かに存在する。彼らは俺のような凡才の事など眼中にないだろう。自らの持って産まれた能力の限界を常に越え続ける天才という人種。

私は彼らが憎くて堪らない。



そして、天才と呼ぶべき少女がここにも1人。



夕暮れの河川敷はとても不安定なのです。

満点の青空から濃紺の夜へと変わる間に、燃えるオレンジが広がる。明らかに不自然。なんだか違和感のあるこの時間には逢魔が時という、なんとも大層な名前が付いているらしいけれど、そこまでの物でもないと思います。

小石を蹴り蹴り、鼻歌混じりに歩く通学路、たった1人。
川の水面は写した夕日の輪郭を曖昧に反射する。
キラキラとした水の上を滑らせるように視線を流すと、対岸にはまた、彼がいます。
沈む太陽を背に、影を帯びた長身で痩身の彼は肌寒くなったこの季節でも、半袖のカッターシャツ。そしてだらしなく、適当に巻いたスクールタイといういつもの出で立ちの彼は川の対岸に腰を下ろし、時折ノートに何か書きながら、本を読んでいるのです。

名前も知らないその彼に、私の視線と心は拐われました。
この河川敷で初めて彼を見て以来、まるで呪いにでもかかったかのようにこの場所に引き寄せられてしまうのです。
毎日、彼がその場を離れるまで、対岸のこの場所に座って、彼の事を考えるのです。
彼は何処に住んでいるのだろうか、学校はどこ?いつもそこで何をしているの?好きな歌は?犬派?猫派?家族や姉弟は?そして、恋人はいるのでしょうか?
この場所でそんな事を日暮れまで考え、彼の背中を見送ってから、私は自分の家に帰るのです。世界がオレンジ色に染まる瞬間だけ、私の心も気恥ずかしい甘酸っぱさでいっぱいになります。そして、沈む太陽よりも真っ赤な私の顔が、彼からは見えていないことを祈るのです。

話は変わって私の事になりますが、思えば私は物心ついた時から、他の人とは違っていました。普通の人には見えない物が見えるのです。それは幽霊や妖怪といった類いの物ではなく、もっと形容し難い不思議で楽しい物です。その話をすると決まって周りの人は私を不思議ちゃんや妄想癖などと言って笑うので、普段は口にしないようにしていますが…。

それは例えば、虹色の尾を引いて空を飛ぶたい焼きです。
夕暮れより明け方によく見える空飛ぶたい焼きは、飛んでいるというよりも、ふわふわと宙を漂い、その尾びれから七色の虹の光を残しながらどこかへ向かっていきます。
もちろん、私以外の誰にも見えていないようで、一度母に話したところ、ウンザリといったような顔でこちらを一瞥するだけでした。
その他にも街を覆うほど大きな透明のクラゲだったり、醤油皿ほどの小さな遊園地だったり、頭に花の咲いたおばあさんだったり。まぁ、おばあさんに関しては花が不思議な物なのか、おばあさんまでが不思議な物なのかは分かりませんでしたけど…。
とにかく、そういった物がよく見えるのですが、それが原因で、姉兄からはよく暴力を振るわれたものです。
指の骨なんかは数える指より折られた指の方が多くなった頃に数えるのをやめました。両親は見て見ぬフリで、祖父母は他界他界でさっさとあの世へ旅行に行ってしまいました。勿論友達と言える人間はいないので、私は実害を被る家族を持っているだけの天涯孤独な身の上というわけです。

あぁ…。そんな事を考えていると殴られたての右目が
痛んできました。女子高生の顔を殴るなんて、お金を積んだっておいそれと出来る事じゃないのに、兄は無料で気分次第で私の顔を殴るのです。そのせいで今、私の右目の周りには紫色の痣が大きく広がっています。前回の分が治りかけていたのにも関わらずまたもや新たな痣が出来てしまったのはきっと私が犯した何らかの罪に対する罰なのでしょう。この世界では私は悪なのです。そして彼らが正義なのです。でないと私にばかり理不尽な暴力に見舞われる事に説明がつきません。

おっと、なんだか暗い話になりましたが、勘違いしないでください、例え理不尽な暴力に見舞われていようとも私は悲惨で可哀想なJKではありません。
毎日をとっても楽しく過ごし、恋も青春も自分なりに楽しんでいる、どこにでもいるようなマッシュルームカットの小柄な女子高生なのです。死のうと思った事もなければ、手首に剃刀を当てたこともありません。
今日も張り付いた笑顔と私にしか感じ得ない世界を武器に、小説家になるべく邁進を続けるのです。

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