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超薩摩守

薩摩と言えば島津家をイメージする人が多いかと思います。
鎌倉時代から明治維新までという長期間、南九州を支配していた島津家。特に江戸時代の当主は代々、薩摩守を名乗っていたので余計に薩摩=島津という図式になり勝ち。
しかし古典芸能の世界では薩摩守と言えば、まったく別の人物が有名。
島津家は源頼朝の御落胤の子孫という伝承があることから源氏ですが、私が言っている薩摩守は平家。ということで平家の薩摩守を妄想しながら、二つの薩摩を料理した記録。


材料

薩摩芋   1個
薩摩揚   1パック(好きなだけ)
昆布    適当
醤油    100㎖
水     100㎖
味醂    大匙1
蜂蜜    小匙1
黒摺り胡麻 たっぷり
七味唐辛子 少々

天養元年(1144)紀伊国熊野で平忠盛の六男として誕生した平忠度(ただのり)。長男の清盛とは26歳差の弟に当たる。
熊野神宮別当の娘が都で忠盛と結ばれて熊野で出産。そのまま18歳になるまで熊野で育つ。
熊野参詣に来た清盛と対面、そのまま都へ。
永暦二年(1161)というこの年は平家全盛期。清盛も頼りになる親族が少しでも必要ということから、親子程も齢が離れた弟を都に伴ったということでしょう。


調味料と細かく切った昆布、食べやすい大きさに切った薩摩揚を鍋に。

熊野という鄙で育ったので粗野かと思いきや、忠度という人物は歌心があり、藤原俊成を師匠として和歌を深く学ぶ。
文武両道に優れた武士として知られていく。
治承四年(1180)に薩摩守に任官以後、薩摩守忠度が通り名となる。
平家にあらずんば人にあらずと言ったのは平時忠。
歴史をよく知らない人は清盛が豪語したように勘違いしているかもしれませんが、実際は清盛の義弟である時忠が言ったこと。
頂点を極めていた平家ですが、昇りつめれば後は下ることになる。
各地で以仁王の令旨を戴いた源氏勢力が蜂起。平家一門は出陣。
忠度も歳が近い甥達と共に将として戦へ。
源平の戦が展開する中、兄である平家総帥、清盛死去。


輪切りにした薩摩芋投入。

当初、もっとも勢いよかった勢力は木曾義仲。
北陸などで平家軍を破り、ついに都へ迫る。平家一門は都を捨てて西国に退去。
平家が去った後の都へ何故か忠度主従だけが密かに舞い戻る。訪れた所は歌道の師匠たる藤原俊成邸。
いつ義仲軍が入京するかという緊迫した時。そこに清盛の弟という平家の重要人物が都に戻った。すわ、この屋敷を接収して立て籠もって戦するつもりかと屋敷の中は色めき立つ。
主の俊成は慌てずに忠度を招き入れる。
長年に渡る歌の教授に礼を述べた忠度は着ている鎧の合わせ目から巻物を取り出す。
「近々、勅撰和歌集が編纂される時には私の歌を一首でも入れて下されば、嬉しく思います」
これから始まるであろう本格的な戦の日々、恐らく自分も死ぬだろうと覚悟しての頼み。


かき混ぜながら煮る。

源義経率いる坂東武者達が西へやって来て起こった一ノ谷の合戦。
鵯越の逆落としという奇襲で総崩れになった平家軍は敗走。
源氏方と偽装して戦陣を抜けようと図った忠度。
岡部六弥太という武士が正体を見破る。
「お歯黒を付けている者など坂東武者にはいない」というのが理由。
止む無く一騎打ち。
歌だけではなく武にも優れた忠度は岡部を組み敷いて首を取るべく刀を持った右腕を振り上げる。しかし岡部の郎党により右腕を斬り落とされ、形勢逆転。
覚悟を定めた忠度は討たれる。
「行き暮れて木のしたかげを宿とせば、花やこよいのあるじならまし」
という歌が忠度の箙、つまり矢を入れる筒に結び付けられていた。予め辞世の歌を作っていたということか。

沸騰したら落とし蓋をして、弱火で15分から20分煮る。

源平戦乱が治まった頃、千載和歌集という勅撰和歌集が編纂。藤原俊成は
「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな」
という歌を詠み人知らずとして収録。言うまでもなく忠度から託された巻物から選んだ一首。

能の演目『忠度』では自身の歌が詠み人知らずとされているのを嘆く忠度の亡霊が描かれる。


薩摩芋が柔らかくなったら、黒摺り胡麻を振る。

狂言に『薩摩守』という演目。
若い修行僧が渡し船に乗ろうとするのですが、金を持っていない。
「船賃は薩摩守」と告げて向こう岸に渡ろうとするという内容。
薩摩守忠度を指しているのですが、忠度(ただのり)つまり無賃乗車という意味。


超薩摩守

薩摩芋と薩摩揚という二大薩摩のそろい踏み。
醤油と味醂の甘辛い味が薩摩芋の甘さを引き立てる。昆布出汁が味わいを引き立てる。
蜂蜜を加えるとコクが出る。
薩摩揚にもしっかりと味が染みて美味。
薩摩揚からタンパク質、薩摩芋からビタミンCや食物繊維、昆布のフコイダンと栄養面も無問題。
優れた抗酸化食品であるゴマグリナンやセサミンを摺り胡麻から摂取。

この狂言から無賃乗車を「薩摩守」という隠語で呼ぶことが昭和の頃にはありました。
今では通じないだろうな。
昭和の頃の日本人は自国の歴史をそれなりに知っていて、こうした言葉遊びも出来ていたということ。
他の例として遅刻してきた人に
「武蔵は困るよ」
これは吉川英治の小説『宮本武蔵』のクライマックス、巌流島の決闘に武蔵がわざと遅刻することで相手を精神的に揺さぶる戦法を取ったことが出典。
言う方も言われる方も歴史を常識として知っていたから成り立つこと。
令和の現在、歴史を知らない、興味もあまり持たない人が多いように感じます。
歴史を学ばなくなった民族は百年で滅びる。と言ったのはイギリスの歴史家アーノルド・トインビーですが、終戦から日本人は自国の歴史を学ばなくなった。それから間もなく80年。このままいけば後20年、ことによればもっと早く日本国は消滅。
そうなる前に少しでも自国の歴史に興味を持つ人が増えればいいなと願いを込めています。

そんなことまで考えつつ、超薩摩守をご馳走様でした。

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