見出し画像

フムス作ってみ田中正造

中近東で食べられているひよこ豆のペーストがフムス。食べてみたくても、私が住んでいるド田舎には中近東料理の店などない。ならば作ってしまえということで自作しながら、地元民のために文字通り命も財産も投げ打った本物の政治家を妄想した記録。


材料

ひよこ豆  200グラム
大蒜    1欠け
練り胡麻  大匙2
塩     大匙2
オリーブ油 大匙1
パプリカ粉 適量

田中正造と大きな関わりを持つ足尾銅山は戦国時代に露出している鉱脈が発見され、江戸時代には幕府の直轄に。ここから産出した銅は寛永通宝となり流通したり、ここから近い日光東照宮の造営にも使われたものの、江戸時代後期には掘りつくされたと思われ、明治維新までほぼ閉山状態。


6時間以上、水に漬けたひよこ豆。倍に膨らむ。

天保十二年(1841)下野国小中村の名主の家に生まれた田中正造。この地は高家、六角家の領地でしたが代官が年貢の横領。それを告発して却って明治維新直前の慶應四年(1867)に入獄することになってしまう。若い頃から曲がったことが許せない性格だったことを思わせる。


圧力鍋で煮て柔らかくする。

古河市兵衛という実業家、閉山してクズ山と呼ばれていた足尾銅山を買い取る。もう銅は出ないと思われていたので金持ちのあることはわからんと地元でも首を捻る者。しかし西洋式の掘削や精錬法を導入すると、鉱山は蘇り、再び活発に採掘。
似たような逸話が田中正造にもある。
地価が下がっている時に土地を買いまくり、一時的に損をしたように見えていても地価が上昇した時を見計らって売却。大金を手にした。正造はこの金を原資として政界へ。地元、栃木県議員を経て衆議院議員に当選。


大蒜を摺り下ろす。

明治二十三年(1890)に衆議院議員に初当選した正造ですが、奇しくもこの年、渡良瀬川で洪水。あふれ出た水で稲が立ち枯れる現象が相次ぐ。
又、水が綺麗な川でしか生きられない鮎が大量に死ぬ。
原因は鉱山から流れ出た鉱毒。
科学的な調査からもそれが裏付けられて、正造は地元のために一肌脱ぐ。国会でこの問題を取り上げて政府を追及。
昔も今も変わらず、問題が起こっても政府はのらりくらり。
質問趣意書を出したり、演説を行うものの、政府や銅山側の腰は重い。
実は農商務大臣、陸奥宗光の息子は古河家に養子入り。身内を庇っていたということ。これもよくある政治と経済の癒着。


茹で上がったひよこ豆、大蒜、塩、オリーブ油、練り胡麻をミキサーで攪拌。ゆで汁を少しずつ加えて滑らかなペーストにしていく。

江戸時代には鉱毒の被害が聞かれなかったということは古河が導入した採掘や精錬法に原因?或いは必要以上に採掘?
当時は富国強兵、殖産興業がスローガン。足尾から出る銅は重要な輸出品目ともなり、止めることなど出来ない状態。
銅山側は脱硫装置を設置などしたものの効果は薄かった。
ついに住民と示談を開始。金で黙らせようという訳。
正造は決して示談に応じてはならないと農民を説得。一時的に金を貰って先祖伝来の土地を手放してはならない。今だけ金だけ自分だけになってはいけない。


フムス作ってみ田中正造

仕上げにオリーブ油適量とパプリカ粉を振りかける。
実は本物のフムスって食べたことありません。様々なレシピ等を参考に作ってみたが、果たしてこれはフムス?
パンや肉、野菜に付けて食べるとか。

農民達は押し出しと呼ばれる大挙、上京しての陳情なども行い、制止しようとする官憲とも衝突。田中がいくら国会で訴えても事態は好転せず。10年以上が経過した明治三十四年(1901)に正造は議員辞職。妻に離縁状。
12月10日、帝国議会開院式から帰る途上の明治天皇の馬車へと直訴を決行。
残念ながら警官に取り押さえられて未遂。


レタスに付けてみた。シャキシャキレタスにコクを与えてくれる。

天皇への直訴を死を覚悟して決行。そのため家族に害が及ばないように離縁状を渡していた次第。
狂人が陛下の馬車の前に転げ出たということにされて、釈放。
正造を罰して騒ぎになったら、鉱毒問題が世間に知られるのを恐れたのでしょう。しかし結局は新聞がこの直訴未遂を報道したことにより世論も動く。
それに突き上げられたか、政府は鉱毒を含んだ水を貯める遊水地を作る案。
明治三十六年(1903)谷中村に遊水地を作ることに。これは政府にとって一石二鳥の案。
反対運動の中心地が谷中村。遊水地を作り、更に反対運動の中心地をなくしてしまえという訳。


塩茹でしたほうれん草に和えた。
鉄分たっぷりなフムス和え。これもよく合い、栄養たっぷり。

正造は谷中村に移住。住民と共に最後まで反対運動を続ける。
政府は土地収用法を改正。谷中村に住み続けることは犯罪ということに。それでも正造は住民と共にありました。
最後は強制廃村。住民は北海道の原野へと移住させられる。
土地の強制買収を不服とする裁判や演説、後援者への挨拶回りと正造は諦めずに抵抗を続ける。


フライドポテトのディップソース。これもいい。

大正二年(1913)後援者宅で死去。享年71。
財産はすべて鉱害反対運動に使い果たし、最後に持っていたのは信玄袋一つ。中身は憲法、聖書、そして小石が3個。
「道にある小石が人に踏まれたり、車に砕かれるのは忍びない」と生前、語っていた。最後まで弱い者の味方であることを象徴する遺品。


全粒粉のパンに塗る。

どれも大蒜風味と胡麻のコクがひよこ豆ペーストに深みを与える。大蒜のアリシンやゴマグリナン、ひよこ豆のタンパク質やビタミンBもしっかりと頂ける。

足尾銅山が閉山したのは昭和四十八年(1973)
これで鉱毒問題は終わりではありません。平成二十三年(2011)の東日本大震災の時、上流の堤防にヒビが入り、そこから流れ出た水にもやはり鉱毒。どれだけ毒性が強い鉱山だったのかと思わされる。

社会主義者、幸徳秋水が起草して正造が書き上げたと言われる直訴状ですが、平成二十六年(2014)に当時の天皇、現在の上皇が正造の故郷、佐野市を訪れた際に御覧になられた。直訴未遂から実に113年を経て、皇族の目に止まったことになる。

「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
田中正造が遺した言葉。
現代のエコロジーとかSDGSとかは利権が絡んでいるけれど、田中正造は文字通り命をかけて財産もすべて投げ打った。
人のために尽くした生涯を送った田中正造を妄想しながら、フムス作ってみ田中正造をご馳走様でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?