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ちゃんちゃん焼桐野利秋

魚屋で良さそうな鮭を発見。これでちゃんちゃん焼きを作るかと思い立つ。
ちゃんちゃん焼き、チャンチャンバラバラ、チャンバラ。ということでチャンバラとなると人斬り、ということで人斬り半次郎こと桐野利秋を妄想しながら料理した記録。


材料

鮭     3切れ
人参    半分
玉葱    半分
キャベツ  半分
ぶなしめじ 1房
バター   20グラム
味噌    大匙3
塩     適量
胡椒    適量
酒     大匙2
味醂    大匙2

天保九年(1839)薩摩の城下士、中村与右衛門の次男として誕生した半次郎が後の陸軍少将、桐野利秋。
そんな堅い名前よりも中村半次郎或いは人斬り半次郎という通称の方が通りがいいかもしれません。
ただ、人斬りという恐ろし気な通り名とは異なり、洒落者で女によくモテたとか、豪放磊落な風があった。


鮭に塩と胡椒を振る。

薩摩ではお家芸として、武士は皆、示現流を学んでいました。上級武士は示現流ですが、下級武士が主に学んでいたのが薬丸自顕流。
半次郎の家は家禄五石という下級武士。ということで半次郎もそれを学ぶ。
10歳の時、父が流罪となり、その家禄も召し上げられ、苦難の幼少期。
16歳の時には兄も死去。一人で家を支えねばならなくなる。そのためか学問をする時間はあまりなく、武士にとって必須とも言える論語とか漢籍の素養は身に付けていなかった。本人も後に
「オイに学問があれば、天下を取れもそう」と豪快に言い放つ。
本人ばかりではなく、西郷隆盛も半次郎に学問があれば、自分など及びもつかない人物になっていただろうと語っていた。


調味料を混ぜ合わせる。

西郷隆盛と出会い、その信奉者となった半次郎。
以後、西郷と行動を共にするようになり、耳目のように様々な情報を集めては西郷に報告する役目を担う。
決して剣の腕だけに頼る腕づくな人物ではなく、それなりの考えや意見も持っていたようで、薩摩と長州が対立するのはよろしくないとの考え、つまり坂本龍馬と似た考えの持ち主。実際に龍馬とも近しい関係にあったようで、寺田屋騒動で龍馬が負傷した時には毎日のように見舞っていたとか。


ぶなしめじの石突を切り落とし、小房に分ける。

人斬りと呼ばれた半次郎ですが、その異名は伊達ではなく剣術の腕前は大したもので、特に居合の名手。雨だれが軒から落ちて地面に達するまでに三回、抜刀と納刀を繰り返してみせた。
半次郎が斬ったとはっきりしているのが赤松小三郎。信州上田、真田家の家臣。
洋式兵学者として名高く、会津や薩摩に門弟が多く、薩摩藩の兵学師範も務めたことから、半次郎もその門下。
赤松本人は幕府や諸藩が対立するのではなく、一致団結して国難を乗り越えるべしとの考え。その考えは西郷や大久保といった薩摩を引っ張っている人物達とは相いれず。
薩摩の機密が赤松を通じて会津、ひいては幕府に漏れてしまうことを危惧。

鮭をバターで焼く。

そうした不穏な空気を察した赤松は京都を引き上げて、上田に帰ることに。
赤松を待ち伏せた半次郎は、身の危険を察知した赤松がピストルを構えたが、撃たれる前に踏み込んで斬り伏せたといいます。
兵学師範であった赤松を斬ることは西郷は止めていたといいますが、半次郎は敢えて決行。西郷の信奉者であったのに、その静止を振り切ったというのはどうも不審。西郷の制止も実は形だけだった?
赤松暗殺の後も、西郷と半次郎の関係に何らの変化も見られていないのが、その証拠?西郷も暗黙の了解を与えていたのかもしれません。
また、大久保利通が半次郎に赤松の監視を命じていたと言われます。
どちらにしろ闇が深い、正に暗殺事件であり、当時は薩摩者の間でもこの件に関しては厳しい箝口令。
藩主、島津忠義は遺族に弔慰金を送り、多くの薩摩藩士も弔問。
半次郎が斬ったことが語られるようになったのは大正に入ってからのこと。


両面しっかりと火を通す。

他にも斬ると決めた相手を普通に歩きながらすれ違いざまに抜刀して斬って捨てたという話も真偽不明ながら伝わります。流石は居合の達人。或いは居合の達人ということから連想された作り話かもしれません。
赤松の他にも手を下した者がいるかもしれません。箝口令のせいで知られていないだけかも。


鮭の下に切った野菜とほぐしたぶなしめじを敷いて、もう一焼き。

そうした恐ろしい人斬りの話が伝わる一方、涙もろい逸話もあります。
戊辰戦争で会津が降伏した時には、城受け取りの使者を務めるものの、その時には涙をこらえ切れずにいたといいます。敗者の感情を慮ったということでしょう。
敗者となった会津の武士達にも親身になって接し、そのことを感謝した会津藩主、松平容保が黄金造りの宝刀を半次郎に贈りました。


混ぜ合わせた調味料を投入。蓋をして5分、蒸し焼き。

明治維新後は桐野と改姓。というより先祖の苗字と言われていた桐野に復姓。維新後は通称を廃して苗字と諱を名乗ることになったことから、以後は桐野利秋となる。明治政府に出仕して陸軍少将に。
北海道視察後、札幌に鎮台の設置を上申。これが後に屯田兵という制度に繋がっていく。
明治十八年(1885)に鹿児島出身の桐野利春なる人物が屯田兵として北海道に赴任したことが判明しているのですが、子供?或いは親戚?ではないかと言われています。
桐野利秋となった半次郎の妻はヒサという女性でしたが、二人の間には子がなく、利秋の弟の子が養子になって利義と名乗り、桐野家を継いだ。となっているのですが、その利義の娘が祖母であるヒサから聞いた話として、実は利義は利秋の実子だったとか。そうだったとしたら、ヒサではない女性が生んだ子という大っぴらに出来ない理由があったか。


ちゃんちゃん焼桐野利秋

鮭を食べやすくほぐして完成。
野菜から出た水分で味噌が程よい濃さになります。ぶなしめじの食感、キャベツや人参の甘さも引き立つ。
ベータカロチンやビタミンC、玉葱の血液サラサラ効果、鮭からは抗酸化作用が強いアスタキサンチンと栄養も申し分なし。

京都時代にも村田さとという恋人がいたということで、桐野はかなりモテる男だったようです。
維新後はフランス製の香水を愛用し、名刀正宗をサーベル仕立てにした業物を帯びていた。
西郷が政府を辞して薩摩に帰ると、それに同行。
西南戦争で西郷と共に戦いましたが、その時にもシルクハットをかぶっていました。戦場でシルクハットとは不似合いな気もしますが、彼なりのダンディズムか。
西郷が切腹した後、最前線で戦った末に額を撃ち抜かれて戦死。享年四十歳。

人斬りという異名に相応しい剣の達人でありながら、男にも女にも愛される面があった薩摩隼人、中村半次郎こと桐野利秋を妄想しながら、ちゃんちゃん焼桐野利秋をご馳走様でした。

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