#10 健康的ナルシシズム 後編
※後編から文体が戻ります
漫画版Lost girls callingを制作しながら、わたしは無意識の内にガチガチに固められていた「女子高生はこういう風に描かなければいけない」という自分の意識を、毛糸玉を一本の糸に戻すようにほぐらかすことにひたすら取り組んでいた。
その過程で、薄々感じてはいたが、自分の中に確固たる「概念的な可愛い(美しい)少女像」を喪失していること、女の子に理想美を投影することへの戸惑いにとうとう直面してしまったのだった。物語に登場する巳波達、観念的な少女の型をはみ出して文字の上に立っている傷付いた少女たちを絵に落とし込むとき、ただ単に「制服を着た可愛い少女」を描いていいのか分からなかった。
嘗て、わたしも女子高生であった
自分もそうであった存在を描くことが、どうしてこんなにも難しいのか
何故ならば実際のところそこにはどういう人間がいるのか、そのコードに隠れた生身の姿を、世に繁茂する女子高生像に包括し切れない有象無象の人間がいたことを自分がよく知っていたためであり、そしてここが一番根本的な問題なのだがわたしは自分(含む人間)に対するナルシシズムを人生の過程で喪失してしまっていた。(喪失してしまった理由についてはまた別の黒い箱を開かねばならないが、つまるところ度重なる強烈な自己否定体験の中で削られてしまったのだろう)
だから余計に、自分も(存在を蔑ろにされた)当事者であったからこそお気楽に理想化して描くことに抵抗があったし、また激しい照れがあった。
女子高生だけでなく、全ての女性像に対してそうなのだ。
わたしはモデルがいる場合を除いて実のところ自分の描く女の子を本当に可愛いと思える事がほとんど無くなっていた。
描かざるを得ない場面になると自身の性自認と既存の女性性との葛藤になり混乱するか、そこをやっと振り解いても今度はナルシシズムが発動しないため照れてしまって描けない。
そうなると何となく世間一般から希求される可愛い少女像を想像で描くしかなかったが、そういうのをもう、全部辞めたくなっていた。
(またまた文脈の分からない人は御免なさい:大森さんの絵を描き始めた時、そのナルシシズムを取り戻せるのではないかと思ったのですが、ナルシシズムを投影出来そうだった姿形から大森さん自身がどんどん変化(進化)していったため、微妙に取り戻し損ねたのでした)
そういう心の中の揺らぎやせめぎ合いが作画中は嵐の様に猛り狂い、元々不安定だった情緒は足元から崩れ落ちそうになっていた。
これは輪郭も自我も不安定なわたしという人間が「人間を描く」際にいつも対峙しなければならない問題であって、作中人物の造形に問題がある訳ではないので明記しておく。
このいつも人間を描く過程で沸き起こる、側からは見えない胸を掻き毟るような懊悩の正体を突き止めるには、この長大な連載10回分を使って自分の思春期の頃のブラックボックスをこじ開けなければならなかった。その過程無くして、Lost girls callingの制作日誌を綴ることは出来なかった。
最近、大昔にやはりどちらの性にも振り切れないような友人から「あなたは雲みたいだ」と言われたことを思い出して、当時は納得出来なかったが今ならとても腑に落ちる。
今でこそ所在の無い人間に落ち着き所となる名前が与えられ、どんなにフワフワした指向でもアルファベットQが包括してくれるが、言葉の碇の安心と不自由、ラベリングはそこからはみ出ているものをやはり取りこぼす。雲のままのでいた方が自由に何処へでも行けるのではないか。
いつも制作日誌という主題から話が逸れてしまって申し訳ない。
本当は制作にあたって内面の騒乱と同じくらい、世間はCovid-19で動顚しそんな世間を尻目にわたしは生活の範囲内で起こる些末な(つまり自分にとっては重大な)問題に情緒を乱されては都度困りはてていたし、見ないふりされてきた社会の格差は目を逸らせない程剥き出しになり、変化していく価値観に対して取り繕うこともしない烈しいバックラッシュが世界を席巻し、粉塵を上げて倒壊しそうな世の雰囲気が自分の脅迫神経症とダウナーな情緒に妙にシンクロしだして、奇妙で、呆然とする1年だった。
作画に取り掛かる前に通う予定だったパソコンスクールが開校延期になってしまいDTPの前知識無く本作りを敢行せねばならなくなったり、出勤数が減り自宅待機になったおかげで制作時間が増えて助かったり、24時間営業のキンコーズが8時で閉店になったりして原稿のスキャンに苦労したり、LGCコミカライズ計画も少なくなくパンデミックの影響を受けた。
販売出来るイベントも延期、中止になるなどして今もまだその余波を被っている。
毎日開いた口が塞がらないニュースが更新され終末感に凄味が嫌増す中、急転直下する世界の流れ、乱降下する情緒、自身の懊悩でわたしはかつて無く自己崩壊寸前の激しい嵐の中にいた。
この10回分の連載はそんな中で正気を保ち、今自分が何処に立っていて、何処からやって来たのかを整理するために使い切らせてもらった。
何故こんなにも描き難い、フィクションの中の女子高生という存在に向き会わざるを得なかったのかというと、高校生時代が自分という存在の不安定化、不定形化をはっきり自覚し始めた時期であり、その不安感が今の自分をなお貫いているからだ。
Lost girls callingは雲のように、もしくはアメーバのように所在無い自分を有形化してくれ、無意識の形や心象風景をはっきり感触のあるものとして物語世界の中で立たせてくれた。
実体が雲のような人間だから、絵で具象化しないと「完全体」になれないことをこの制作を持ってより強く実感している。Lost girls callingを描かなかったらわたしは人間の描き難さと自分の不定形さに今以上に苦しんでいただろう。
商業的な出版物でこんな極私的な衝動をぶつけてしまった事は間違いだったかもしれない。
由良さんにはわたしの世の中に希求されるイメージの描き難さのせいで迷惑をかけた。
この連載の始めでは今という安全な場所から心の闇に葬った女子高生だった過去の自分を恐る恐る掘り下げてみようという試みだったが、結局は長い間触れられなかった黒い箱を開けることになり、安全地帯どころか今もなお不定形で混乱した自分が続いていたということに気が付いてしまった。
そこに打ち拉がれる部分も有るが、絵を描く上で自分を不自由にしていた枷の正体に気付くことが出来たので、わたし一人にとっては少なくとも意味のある連載だったと思う。
けれども、物凄く複雑なものをエラーを起こしっぱなしの脳で無理矢理文章に纏めようとしたのでちょっと消耗し過ぎてしまった。
わたしは今大きくうねり変わろうとしている倒壊寸前の世界で、今もなお寄る辺ない心と体を抱えて細いロープの上を綱渡りしているような状態に在る。
今までに無く暗い孤独を感じ生きている。
そんなギリギリの場所で、自分がどんな不定形さを抱えて生きているのかを理解したことによって持ち得た、ジェンダーと葛藤することのない自分(含む人間)に対するナルシシズム(まだまだささやかで小さいけれど)を希望の光にして、一歩前を灯し進んでいる。
不具合の多発する脳で綴ったこの読み難い連載を誰が読んでくれているのか分からないが、極私的な時間旅行に最後まで付き合ってくれて有難う
崩れ落ち切るところまで生き伸びたら、倒壊後の世界で、また
火野文子
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