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とっさにわかる一番大事なこと

阪神淡路大震災のとき、私の自宅は神戸にあって、祖母と二人ぐらしだった為、被災地の中に家がある状態だった。当時22歳の私はたまたま、前日に横浜に旅行に出ており、偶々新幹線に乗り遅れ、横浜で1泊することになった日、阪神淡路大震災はおきた。 私の家族や友人もみんな被災した。

親友の母の話


私の親友の実家は、被災地の真ん中である灘区にあり、母親、おばあちゃん×2名(姉妹)と3人の女性だけの家だった。震災が起きたとき、母親は、90代のおばあちゃん2名のうち足が動かない1名を背負い、亡くなったおじいちゃんの位牌と、娘(私の親友)の20歳の時の振袖の記念写真をもって、もう一人のおばあちゃんの手を引き、避難所に逃げたそうだ。
もっと、通帳とか、土地の権利書とか、食べ物とか、持ち出したほうが良いものがあっただろうに、お母さんが持ち出したのは、位牌と写真(笑) 当時笑い話になっていたが、今思い返せば、お母さんは、「家族が一番大事」な愛情深い人だったんだ・・・と思える。90代のおばあちゃん二人を連れて避難所に行くのは大変だっただろうに、位牌のおじいちゃんも、写真の娘も忘れず持ち出したのだ。

金目のものではなくお位牌

うちのばあちゃん


私が居ない日に限って、大震災が起き、建物は無事だが、家の中はぐちゃぐちゃの半壊と呼ばれる状態だった。
私が居ると、ばあちゃんは和室でいつも寝ていたが、私が居ない日はリビングのソファーベッドで寝ていた。これが功を奏し、半壊の家にいたのに、ばあちゃんは無傷だった。冷蔵庫が倒れ、ころがってきた缶のお茶を飲んで、水分を取ったらしい。自分で電話線をさしなおし、私に電話してきたのだ。 私は横浜で、早朝から祖母の電話で目覚めた。

「窓の外みたら、隣のマンションがないねん。」


「 斜め前のマンションも消えてる。救急車が、「けが人居たら乗ってください」って言いながら走ってる。お隣のご主人が声掛けしてくれたけど、いまは、生き埋めになった人を掘り起こしに行ってるみたいや。時々めっちゃ揺れる。地震がとまらんで怖いわ。」とのこと。 

慌ててテレビをつけたら、阪神高速が横倒しになってる映像がでてきた。
見覚えがある・・・うちから徒歩でいける国道43号線の上にある高速だ!
映像では、三宮のさくら銀行のビルが横倒しに倒れ、道をふさいでいた。

これはまずい、早くばあちゃん助けに帰らないと


って思って調べたけど、東海道線は当然止まっている。バスは高速倒れてるくらいだし、当然出ていない。どうやって帰る!?
大阪にいる私の叔父は、ばあちゃん助けるために、自転車で大阪から行こうとしたらしい。100kmくらいを自転車で走り、ばあちゃんをのせて大阪まで戻るつもりだったそう。でも国道が全部通行止めで私の実家に連絡したそうだ。

ばあちゃん救出


一番近くにいる、うちの母親が神戸市北区の両親の家から、東灘区のばあちゃんの家まで助けにいくことになった。まず長蛇の列になってるガソリンスタンドで並んでガソリンをいれ、倒壊してなさそうな有馬街道を走ったそうだ。山の上の北区から、街の中央区に降りるための街道が、有馬街道だ。
山の上にある北区のほうは、さほど被害がなかった地域になる。
被災地の中央区に入った途端、母曰く、「まるで戦場みたいやったわ!

中央区のお隣の長田区では、大きな火災が起きていた。遠くまでその炎がみえたらしい。火災の黒煙が立つ中、ビルが倒れている中央区へ。道は倒れた電柱と電線が絡まってる状態だったそうだ。アーケードが落ち、あちこちで火災が発生していたらしい。
うちの母は車の運転がとてもうまい。ものすごい細い道でもうまく通り抜ける。この運転技術で、倒壊したビルや建物、電柱の間を走り抜け、東灘区にあるばあちゃん家にたどり着いたのだ。

まるで戦場のような被災地の様子。火事があちこちで起きるが、断水で消防車が動かない。

周りのマンション&アパートすべて全壊


うちのマンション1個だけ残して、周りのマンションとアパートが全部倒壊し、生き埋めの人を助ける人たちで大混乱だったそうだ。私もあとから見たが、自宅の周りは全部、瓦礫の空き地のようになり、線香と花束が30センチ間隔くらいで置いてあった。うちのマンションは、偶々地下6m地点に、大きな岩盤があり、そのうえに建築されていたそうで、奇跡的に生き残った。
うちのばあちゃんを無事、北区の両親の家に避難させて、うちの家族は全員無事となった。私も7日後に開通した福知山線を使い、山陰経由で、10時間近くかけ、大阪の叔父に、救援物資として30㎏のお米と水2リットルを持たされ(-_-;) 実家がある被災地入りした。被災地では米と水が不足していたためだ。 ばあちゃんは、縫製の道具と、亡くなったじいちゃんの位牌を持って出たらしい。ばあちゃんにとっては、お位牌も立派な家族なのだ。

ボランティア


当時はボランティアの建築士たちが、「半壊」「全壊」という張り紙をビルに貼って回っていた。実家の飲食店が全壊し、炊き出しのボランティアに出た友人もいる。隣の課の先輩が、ビルの倒壊で亡くなった。お腹に赤ちゃんがいたため、丸くなってお腹をかばう体勢で生き埋めになったそうだ。すぐ身近にある悲劇に、職場のみんなもボランティアで炊き出しに加わったらしい。うちの母と妹は、ペットボランティアということで、震災で家をなくした猫を連れ帰ってきた。みんなが、自分にできることで、地域に貢献している姿だった。

とっさに出る行動


とっさな時に出る行動で、その人が本当に大事に思ってることがわかるなぁと思う。 縫製工場を経営していた祖母姉は、大阪空襲の時に、商売道具のミシンを背負って逃げたと言ってた。 私もどっちかというと、この祖母姉のように、商売道具であるパソコンを持って逃げると思う。もちろん、家族が居れば家族を連れて逃げる。22歳当時の私は、楽譜とエレクトーンをそのあと、軽トラにのって救出にいった。90歳のばあちゃん二人を連れ、位牌と写真をもって逃げた友人のお母さんの話は、今聞くほうが感動する。

この震災から2か月後に、私は結婚して横浜へいった。
これが実家の家族と過ごした最後になる。 最後は、震災のあと片づけ作業だった。今の台風による通行止めや、お盆に出た「南海トラフ沖地震警報」やそれに伴うコメ不足のニュースを見ていて、当時を思い出したので書いてみた。


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