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沈丁花美空の憂鬱 第3夜

チリン…。

開いたドアにふと目をやると、男性が入って来たところだった。
コートが濡れている。とうとう降り出したみたいね。今にも雨が降りそうな、どんよりとした1日だったから。

「参ったよ、降ってきた。」男性は冷たそうなコートを脱ぎながら、わたしの1つ向こうの席につく。
「今夜はかみさん、子ども連れて帰ってんだ。そう実家に。ゆっくりしてくよ。あ、ロックで。」マスターとそんな会話をしているのを聞くとはなしに聞いていた。ぼんやりと手元のグラスに浮いた氷を見つめながら。

奥さん、子ども、彼らの不在に羽を伸ばす父親…。わたしには縁のない家族というもの。
いいえ、縁がないわけではなかった。
わたしにもいた、家族。
それをわたしは捨てたのだ。


もう25年以上も前のこと…。
故郷の秋田から上京して、すっかり演劇に夢中になっていた。そんな日々を過ごしていたわたし…自分でも眩しく感じられる。

そんな時、妊娠した。二十歳だった。
一緒に上京した彼との間に、新しい命が授かったのだ。
もちろん産むことしか考えなかったけれど、勢いよく駆け出したばかりのわたしは急に止まらなければならなくなった。
彼も役者を目指して頑張っていたけど、そこで自らの限界を感じたのか裏方へ転向。そして、出産する頃には就職して会社勤めになった。
家庭を第一に考えて、自らの夢を諦めたのね。

わたしは悔しかった。子どもと暮らしていくには仕方のないことで、彼の優しさなんだと嬉しくもあったけど…悔しかったな。
それは彼の悔しさと、急にストップをかけられてしまった自分の悔しさとごちゃ混ぜになっていたのかなって…そんな風に今では思えるけれど。

まぁ、そんなこんなで男の子が無事に生まれて…わたしは赤ちゃんとの日々を、彼は仕事に励み、2人で一生懸命父親・母親になろうとしていた。
そして半年経って…わたしは仕事に戻った。

連絡してきた人がいたの。
劇団に出入りしてた音楽関係の人で、インディーズで売れてメジャーデビューする若手のバンドがいて、そのPVに出てくれないかって。
それがわたしのイメージにぴったりなんだって。
2つ返事でOKしたわ。
耐えられなかったの。
赤ん坊はかわいいし、旦那は家族のために働いてくれて…愛されているとも感じていた。

けれども…何かが足りない、満たされない。何かがわたしを呼ぶ。抗えない魅力を持つ、惹きつけられる何か…。
明かりを落とした演劇場に立ち込める熱気、どうらんの匂い、顔に当たる照明の熱さ…それらが恋しかった。
眠った子どもの顔に安らぎを覚えつつも、わたしのいる場所は本当にここなのだろうか?このままずっとこうして生きていくことになってしまうのだろうか?…自分でも説明のつかない涙で幾夜も枕を濡らした。

そんな時の連絡だったから。
決めたら話は早かったわ。
ほとんど旦那に相談もせず、保育園を決めたりと復帰の手筈を整えた。
それから後は知ってる人も多いかしらね。
PVは話題になり、メディアに取り上げられ、ドラマ、映画と夢中で演じているうちに今のわたしになったって訳。

あの頃…赤ん坊だった息子を寝かしつけながら夢見ていたことは全て叶った。
それなのに…心にぽっかりと空いた穴は塞がらない。それどころか日に日に虚しさを増していく…。

そう、失ったもの。
子どもと夫。
仕事にのめり込むわたしに愛想をつかした彼に、別れを切り出された。
もちろん親権も与えられなかった。
わたしが30歳、息子は10歳の頃。

夫婦の不協和音は、わたしが復帰した頃から少しずつ鳴り響いていた。
表向きは応援してくれていた彼だったけど、どこかにわたしに対するわだかまりがあったんだと思う。
自らも目指していた役者を、家庭のためにと諦めたこと…。その無念さが消化しきれていない一方で、妻は着々と活躍の道を歩んでいる。
家庭を、子どもを、家族のために働く自分を顧みず…。
その気持ちが溜まりに溜まってのことだと、それはさすがに当時のわたしでも分かったわ。

子どもの母親でなくなるということ…それがこんなにも辛いことなんだと身を切られるような思いもした。

でも、既に走り出した道を降りることはできなかった。
親権を得る権利すらないと思ったわ。
それが離婚までの10年間、わたしがやってきたことなのだと引き受けると決めた。
その頃、映画の公開も予定されていたから、周りからもどうか穏便にして欲しい…という大人の事情もあったけれど。

とにかくそうしてわたしは独りになった。
こんな夜は、その独りが特に身に染みる。
ここまでふらふらと流されてきたような人生だった。わたしの人生でありながら、いつもどこかうわの空で…。
そう、あの子が描いてくれた横顔のわたし。
薄いグレーの空っぽの花瓶のような。
それは居場所のなかった故郷の空にも繋がる。あの、どんよりとした灰色…。

このままの虚無を、これからも生きるのだろうか?


「じゃ、また来るよ。」
その声にハッと我に返った。
1つ向こうの席の男が立ち上がってコートを着ている。もうすっかり乾いて暖かそうだ。

わたしもそろそろ帰ろう。
あの日、舞台に戻ると決めたわたしが確かにいた。自分の人生を生きると決めたわたしが、確かにいるのよ。
悲しみも寂しさも、そして後悔も…それらを抱えてこれからも生きていく。
それがわたしの人生に責任を取るということだから。

ふとマスターと目が合い、思わず笑顔になる。
そう、人生って面白い。まだまだ捨てたものじゃない。
そんな愚かで愛おしい人間の姿を、わたしの全てを使って表現し、伝えていきたい。
それがわたしの仕事なんだと強く思った。

「ごちそうさま、マスター。また来るわ。」

外は雨が止んで月が出ている。
身の切れるような澄んだ夜の空気を思いっきり感じて、大きな足取りで家へと向かった。

第4夜へつづく


↓きくさんの書いた第2夜はこちら
バーで合った女の子に話しかけられた美空は…⁈
ぜひご覧ください!











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