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劇団四季「ジーザス・クライスト・スーパースター(エルサレム・バージョン)観劇

5月1日(水)劇団四季「ジーザス・クライスト・スーパースター(エルサレム・バージョン)」

京都四季劇場

ジーザス:神永東吾

イスカリオテのユダ:佐久間仁

マグダラのマリア:守山ちひろ

イエス=キリストが十字架にかけられるまでの最後の7日間を描いた超有名作品。知名度やスター性に頼らない、“劇団四季のミュージカルスタイルを確立した名作”ともいわれています。アンドリュー・ロイド・ウェバーが弱冠23歳!の時に作曲したロックオペラで、一切セリフがなく、音楽と歌のみで構成。

今回は、エルサレムバージョンで、砂漠をイメージした傾斜舞台で演じられました。

いや、すごかったんです。ダンス・歌、舞台装置とも申し分なく。最後まで怒涛のように走り抜けていく展開も。

特にジーザスとユダの歌唱力はえげつなかったです。マグダラのマリアは、娼婦のイメージよりもちょっと清純派寄り過ぎないかとは思いましたが。

「ミュージカルを見た!」という充実感はありました。そして、以前コロナ禍の限定オンライン視聴際に感じられなかった気づきもありました。

「そうなんだ、これって、マタイ受難曲系の”Passion"とかオラトリオとかをロックでやっちゃえって23歳のワカモンが思いついて、若い勢いで書き上げたもんだったんだ」というそもそも論も実感できました。日本語の歌詞もきちんと聞き取れて、さすが四季!という満足感もあり。

でも、なんか綺麗にまとまり過ぎてるんですよね。なんとなーく物足りない。

こんなに楽曲が優れていて、演じ手さんたちも素晴らしく、舞台装置だってよく考えられていて、衣装・演出ともモンクのつけようがない出来。な、はずなのに、なぜかあまり感動しない。「あーええもん見してもらったわー」としみじみ思うのだけれど、ヒリヒリとした爪痕が心に残らない。

なんでなんだろう・・・と考え続け、ちょうどGWだったのをいいことに、2012年10月5日にバーミンガムのナショナル・インドア・アリーナで行われたアリーナツアーのDVDを見ました。

そしてその疑問が解けたかもしれないです。

まず、日本語訳が、「日本語として聞き取りやすい、筋を掴みやすい」訳になっている。いや、それ自体が悪いわけじゃないんですが、そこにある皮肉や諧謔、猥雑さ、大衆の愚かさが全て綺麗に浄化されてしまっている。

そして、今回見た四季はエルサレムバージョンだったので、イエス・キリスト誕生当時をイメージさせる演出だったんですけれど、2012年アリーナツアーバージョンでは、多分作詞のティム・ライスも、アンドリュー・ロイド・ウェバーもそんなことがしたかったわけじゃなかったことがひしひしと伝わってくる。なんせ2人とも若いので、京大の西部講堂でやる前衛劇のスケールでっかいバージョンみたいなことがやりたかったんだってことがよくわかる。

2012年といえばOccupy Wall Streetやアラブの春で若者が起こしたムーブメントの翌年。冒頭にそのニュース映像が流れます。そして、ジーザスはその反体制運動の指導者、イスカリオテのユダはその参謀を彷彿とさせる体。マグダラのマリアはスパイスガールズのメラニーだし、ヘロデ王はバラエティーショーの花形パーソナリティ。SNSで圧倒的に支持されてきたジーザスが逮捕された途端に手のひらを返したように「十字架にかけろ」と騒ぐ民衆。これって、私たちの同時代やん。と、気づくきっかけが満載。

そうした政治性・同時代性が綺麗さっぱり四季のバージョンからは拭い去られているんだなあと。

良くも悪くも、私は自分ごととして心に爪痕を残し、日頃の自らや社会を捉え直すきっかけをくれる劇(か、なーんも考えずにただただゲラゲラ笑って楽しめる or 美しいなあと愛でることができる劇(笑))が好みなんだなあ、と、改めて自分の好みを認識しました。それはそれとして、今まで無関心だった「ジーザス〜」というミュージカルに目を向けさせてくれた劇団四季の存在には、深く感謝します。

最近劇を20代の頃から考えるとなんと四半世紀の時を経て(笑→ゆうたら子供生まれて以来のブランクです)積極的に見るようになってきておりまして、観劇記録を残さないと見たものが全て流れていってしまうなあ、と思い。

GWを機にFBで書き始めてはみたものの、これ、どうしても長くなるし、あまりFB向きじゃないなあと思うので、以降(ずっと放置している笑)noteに書いていこうかなと思います。

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