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こどもとおとな。


私は大人になっても、体の中には子どもの自分がいると思っています。子どもと大人の部分はハッキリ分かれているわけではなく入り混っていたり、半分にスパッと分かれていたり、大人のベール中に小さな子どもがいたりするかもしれません。私の感覚と一番近いのは大人のベールの中に小さな子どもがいるイメージです。ここでいう大人は社会性を意識している自分、子どもは純粋にやりたいことをやる自分です。
子どもの自分は好き!嫌い!という気持ちに忠実に動いています。大人の自分はその子どもが健康に生きていけるようサポートする役割だと思っています。

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私にはコミュニケーションの癖があります。そのひとつに、相手の子どもだった時の姿をイメージすることがあります。
相手が昔どんな子だったのかイメージを膨らませた後に、自分の子ども時代の姿と内面をイメージします。そしてその2人を遊ばせます。
そうすると力まず関われるし、楽しいし、相手と仲良くなれるような気がします。相手の子どもの姿をイメージできない時もあります。それはきっと大人の力が強いからだと思います。私も自分の大人の力があまりに強くて、子どもの自分を思い出せない時がよくあります。こういう時、自分が何が好きで嫌いなのかがわからなくなります。

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働いていると役割や役職を持ちます。私は視覚翻訳家です。
今日あった仕事の打ち合わせで
「専門職としてのコミュニケーションと社会人としてのコミュニケーションは違うのではないか?」
という話が出てきました。私はその違いがわかりませんでした。専門家としての人と関わる時、社会一般のマナーを守って人と関わる時、黒木歩としての関わり方があって、その三者の違いがよくわかりませんでした。

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もしかしたら大勢の中で働いていたらもっとハッキリわかっていたかもしれない。(わからない。)

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大人は自分の中の子どもが健康に楽しく過ごせるようサポートするためにいるのに、たまに大人でいることが目的になってしまうことがあります。
大人は色々なところに連れて行ってくれるボートになったり、どこにも連れて行けないようにする足かせや檻になったりする。
うまく付き合っていきたい。

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誰かに何かを伝えたいと強く思ったとき、手と声が震えます。
腹の底にいる子どもが何かを伝えようと声を出すけれど、喉の通路にガコンガコンと屈折衝突しながら、元の想いの力は弱くなり、ようやく口から出たときは小さなものになっている。それだけ自分の言葉で相手に何かを伝えようとする行為は私にとって怖いことです。声が小さくて届いてないだけかもしれなかったり、文法がおかしくて相手にうまいこと伝わってなかったり、変だと思われちゃったりしてるかもしれない。嫌われちゃうかもしれない。
でも自分の気持ちを直訳した言葉を出せたとき、嬉しくなります。

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