ある在日朝鮮人4世の記録 #3
朝鮮学校は公立学校と違って毎月3万円ほどの月謝を支払わなければならなかった。そのほか部活動で使うお金や遠足費、修学旅行代、もちろん制服代、給食は普段は無くお弁当持参だが、バス電車で通学する子は交通費などととてもお金がかかる。私には妹と弟が居るので3人分毎月の月謝は家計にとってかなりの負担だったに違いない。苦しい家計から両親が捻り出したお金が入った月謝袋を持って学校に支払いに行く時、その紙の封筒に押された領収印を見て数ヶ月前の分の月謝がそこに入っていることに気がついた。学校はこんなに待ってくれるのかと驚いたしこんなに遅れながらも必死に働いて払ってくれる親がありがたく申し訳ない気持ちになった。だからというわけでもないが、高校は特に行きたい学校もないしやりたいと思う勉強もなくて周りに勧められるがままに学費が安くて資格をたくさん取れる公立の商業高校を受けて無事合格した。私立は行くつもりがなかったので滑り止めは受けなかった。受験料も安い。入学費も安い。とにかく公立は全部安い。祖母は私に会うといまだにこのことに触れて「あんたは親孝行な子やで…」と言う。
生まれて初めて朝鮮人コミュニティから出て日本人のいわゆる“ふつう“の世界(学校)に飛び込んだ。初めは持ち前の緊張しいと考えすぎと人見知りでなかなか思うようにクラスメイトとも話せず毎朝泣きながら電車に乗っていたが、部活動が始まる頃には友達も数人できて日々楽しい!が増して行った。私には苗字が二つある。通称名と本名(名前は同じ)。高校へは本名で通った。特に大した理由は無かったと思うが、当時の『朝鮮人らしく生きたい』という意志の表れだったのかもしれない。生まれて初めてできた日本人のクラスメイトたちは私の苗字を見て「韓国人なん?」「いつ日本に来たん?」「日本語めっちゃ上手やな!」「朝鮮学校って北朝鮮のスパイなんやろ?」っていう質問を次々としてきた。同じクラスにたまたま居た同じ在日で帰化した子を除いて誰1人として在日朝鮮人という存在を知らなかった。チマチョゴリを着たソンセンニムが居る朝鮮学校も、韓国料理でも和食でもない在日料理も、キムチの匂いがするハンメの家でするチェサも、オンマアッパハンメハルベオンニヌナと呼び合い日本語と朝鮮語が混ざり合う会話も…私にとって当たり前の日常である“在日の世界“はどこか遠くにあるのではなく、このクラスメイトたちと同じ社会の中にあるのだ。私たちは隣人として同じ土地で生まれ育って生きてきたはずなのにそれを知らない、ましてやこんな質問をされるとは想像もしていなかった。そもそも私たち在日が存在しているのは日本の歴史そのものに原因があるのにその歴史っていうものをこの人たちは知らんのやなと心底驚いた。驚きと諦めと呆れの気持ちが入り混じって下手くそに笑いながら在日とは、を説明した。何度も。何人にも。その度に「へえ〜」とわかったのかわかってないのかよくわからん表情が返ってきた。それでも朝鮮人やからと言っていじめられたり揶揄われたりも全くなく友だちもたくさんできてそれなりに楽しい高校生活を送った。そして10年後、それらの質問がマイクロアグレッションであるということを私はようやく知った。今もこのような質問を日本人からされることがある。私はその時あの頃のようにその相手と親しくできるだろうか?友だちになれるだろうか?いや、その必要があるだろうか?
高校生の頃、学校帰りにいつも乗り換えをする大きな駅前「慰安婦は嘘」という趣旨のプラカードや幟を持ってお世辞にも綺麗な格好とは言えないおじさんたちが必死に叫んでいるのを見た。その時に真っ先に感じたのは「アッパには絶対に知らせたらあかん」。父がこの団体?のこの主張を目にしたら怒り狂って殴り込むだろうと思った。私は父が怒るということがその頃世界で一番恐ろしかったのでどうしてもそれは回避したかった。一拍置いてようやく自分自身の怒りが沸いてきた。けどこのおじさんたちに話かけたり文句を言うのはできない。じろりと目一杯睨みながら前を通り過ぎることしかできなかった。
その後、街頭で同じような人種差別煽動街宣が何度も何度も繰り返された。地元でも、全国各地でも。それがヘイトスピーチと呼ばれているということを知った。インターネットにも路上にもどろどろとした悪意と嘘が溢れていた。恐ろしかった。見ず知らずの人からいつも自分や家族にナイフを突きつけられているような気持ちだった。朝鮮学校に通っていた頃は、在日朝鮮・韓国人という自分のルーツは誰のものでもなく私自身のもので、誇らしく胸の中でじんわりと心を温めてくれるものだった。しかしそれが乱暴に抉り取られ晒されズタズタに引き裂かれ悪意と嘘のペンキでベタベタに汚されるようだった。
この頃から“日本的なもの“がどんどん苦手になっていった。ヘイトスピーチをする人たちが必ず掲げている日の丸、旭日旗はもちろんのこと、侍ジャパン!みたいなんとかCool Japan!みたいなんに反射的に嫌悪するようになっていった。
ヘイトスピーチの現場でそれを止めさせようとするカウンターという行動が行われていることをSNSで知った。恐る恐る参加してみるとそこには父が居た。私が絶対に知らせたらあかんと思っていた父はもうこの問題のことを知っていて、父もこのことは家族の前では話したことがなかった。お互いがお互いに知らせないよう静かに怒り、黙ってカウンターに参加していた。
カウンターの現場でもSNSでもたくさんの人に出会った。私と同じように在日のルーツを持った人も日本人も居た。優しい人もおもろい人もちょっと怖い人もうるさい人も静かな人も、嫌な日本人も在日も、素敵な日本人も在日もそれ以外の人も居た。ここでいろんな人と出会ってもっと広い“差別の問題“を知っていった。自分はマイノリティでありながらマジョリティでもあることに気がついた。自分の心の中にも誰かを差別している心があって、それは長年染み付いてなかなか意識を変えるのは難しい。けれど気がつくことができた。今も自分のそれと向き合い学び考えを深めて広げたいと努力している。し続けたい。
高校時代の友達にヘイトスピーチのことを話したことがある。
“在日朝鮮人・韓国人“に向けられたこの憎悪は私自身に向けられているものでもあって、とても怖いし腹が立つししんどいというようなことを言ったんだと思う。するとその友達は「こんなことを言ってる人も居るみたいやけど、うちはあんたがなに人でも大切な友達やで」と言ってくれた。このあったかい言葉にも私はモヤモヤしていた。私はこの友達が私のことをどう思っているかを聞きたかったんじゃなくて一緒に怒って欲しかった。一緒に憤って欲しかった。一緒の問題やと思って欲しかった。今でもそのモヤモヤは伝えられずモヤモヤしたまま線を引いて諦めてしまっている。
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