ある在日朝鮮人4世の記録 #2

中学は実家から自転車で15分→電車で20分→徒歩で15分という絶妙に近くもなく大して遠くもない場所にある朝鮮学校に通った。そこは幼稚園から中級学校まである、私が6年生まで通っていた学校よりも少し大きな学校だった。

中学になると男子の制服は学ラン、女子はチマチョゴリとブレザーに変わった。なぜ女子は2種類あるのかというと、本来の女子の制服はチマチョゴリだったが私たちが中学に入る10年ほど前に、チマチョゴリを着た朝鮮学校生が通学中の電車内でナイフでそのチマチョゴリを切り付けられるという事件が相次いだ。私の通っていた中学のOGも私が当時通学に利用していた沿線の電車内でその被害に遭ったと聞いたことがある。それ以降、女子朝鮮学生はブレザーで登校し、学校に着いたらチマチョゴリに着替え、またブレザーに着替えて下校していた。そんな経緯に対しての恐怖や憤り、また毎日何度も着替えないといけないことへのめんどくさいという思いや当時はそれほどなくて、ブレザーもチマチョゴリもどちらも「大きいオンニたちが着るもの!それをついに私も着れるのか!」と心が躍ったのを覚えている。しかし学校指定の通学用カバンには学校名が記されている。チマチョゴリを着なくても朝鮮学校の子というのは一目瞭然である。幸いにも私が中学に通った3年間で通学中に民族差別に出くわすことはなかった(気づいていないだけかもしれない)が、あの頃を思い出すと教科書、体操服、お弁当、水筒が詰まった通学カバンの重さと持ちにくさを思い出して肩が凝ってくる。

幼稚園から初級学校を一緒に過ごした7人の友だちも全員同じ学校に進学した。そこではクラスが22人に増えた。毎日が新しくてワクワクした。楽しいことも小さいいざこざも大きいいざこざもあった。今思うとその頃の私は「誰にも嫌われたくない!みんなに良く思われたい!」と必死だった。本当は気が小さくて根が真面目なくせにみんなの気を引こうとわざとふざけたり大きな声を出したりおかしなことを言ったりした。先生の悪口を言った。学校内では日本語禁止だけど日本語で話しまくった。そんなに必死にならなくてもいいと気づくのに3年というのはあまりに短すぎてとうとう足りなかった。そして私は見事に朝鮮学校の悪い部分であるマッチョ体質に酔いしれて、根性!一心団結!みたいな言葉が大好物になった。映画「パッチギ!」の世界に憧れていた。

そのころはちょうど“冬のソナタ“をきっかけに韓ドラやKPOPが大流行した時期だった。クラスメイトたちもどの俳優やアイドルがかっこいいだのあのドラマが泣けただのと常に話題になっていた。今まであまり意識していなかった韓国という国が一気に近くなった。確か3年の時の運動会だったと思う。校舎の屋上から校庭にかけて万国旗と朝鮮の国旗の列が交互に張り巡らされているを見て私は、なんで韓国の国旗は無いんやろう?と疑問に思い担任の先生に聞いてみた。どんな言葉で尋ねたのかはっきりとは覚えていないが、思春期反抗期真っ只中で常にツンツン尖っていて近づいてきたやつ(特に大人)の話なんか真っ直ぐ素直に受け取られなかった時期だったんだろう(言い訳)。きっとこの素朴な疑問さえもとてつもなく喧嘩腰でひねくれて担任に尋ねたんだと思う。なんでそうなったのかは知らないが、校長室の隣の普段は誰も使っていないような会議室のような部屋で担任と2人きりでとても深刻にその話をしたことだけ断片的に覚えている。そして覚えているのは「朝鮮も韓国も元は一つの国で、どちらも私たちの祖国のはずやのになんで朝鮮の旗しか掲げないんですか?矛盾してないですか?」という私の質問に「大人っていうのは矛盾した生き物なんだよ」って担任が答えて「こいつ逃げたな」と思ったこと。どんなふうにその話し合いが終えられたのかも覚えていない。当時確か30代だったであろうその女性の担任は真面目で一見冷たそうに見えるけど情熱的で真っ直ぐな先生だった。数学の先生。あの頃は素直に話せなかったけど、今あの頃の彼女と同年代に差し掛かってきて、当時彼女はあの質問に対してどんな思いだったんだろうか、どんな思いで朝鮮学校の教師として生きていたのか、その後どんな人生を歩んでいるんだろうか、知りたい。思春期を拗らせて素直になれずに背伸びばかりして周りに当たり散らしていたあの頃よりは少し大人になってマシになったであろう自分で、生徒と教師ではなく、彼女とまた話したいとほんのちょっとだけ思う。

中学入学を機に携帯電話を持つようになった。学校が遠くなり通学時間も長くなるということもあり、ちょうど時代的にもガラケーが普及されてきて求めやすくなっていた時期でもあった。周りの友達もほとんどがこのタイミングでケータイを持ち始めていた。憧れのケータイ!友達とメール!電話!案の定使いすぎて親に叱れることもあった。その頃グリー?みたいな名前のSNSが流行っていてその流行りに乗り遅れまいと私も使っていた。同じ学校の友達先輩後輩、他の地域の朝鮮学校の友達もほぼみんなオンライン上で学校名や実名を上げながらオンライン上での交流を楽しんでいた。しかしその当時はネットの怖さもまだわからなかった。実名や学校名、写真までネットに晒すというのがどれだけ危険なことなの知らなかったし、当時はまだそういう危険について教えてくれる大人もいなかった。私たちの名前や学校名を見て「朝鮮人帰れ!」と絡んでくる人たちが現れた。私にだけじゃなく、他の友達にも同じようなコメントをしている。初めてネトウヨに絡まれた(当時はまだこれがネトウヨだと知らなかった)。その時は怖いというより「馬鹿な奴がおるな〜朝鮮と日本の歴史のこと何にも知らんのやな〜」と思って淡々と在日の歴史について説明したりしていた。それよりも悲しかったのが、友達がそいつらに「黙れチョッ◯リ!」と日本人に対しての侮蔑語を使って言い返しているのを見た時だった。腹立つ気持ちも言い返したい気持ちもよくわかる。でも同じように差別用語を使ってしまったら自分も同じ土俵に立つことになる。私たちは何も悪いことしてないのに、そういう言葉を使って言い返した途端にそいつらと同じになってしまう。だからそれはやめよ、とその友達に伝えた。その子は素直に「確かにそうやな。」と納得してくれた。私はその子が“チョッ◯リ“と言わなくなったことと、「偉そうになんなん!もう友達やめる」と言わずに受け入れてくれたことの2つに安心した。



「조선사람답게 당당하게 살아 가겠습니다! 朝鮮人らしく堂々と生きていきます!」

高校進学を大多数のクラスメイトが進学する朝鮮高校じゃなく日本の公立高校へ1人で進学することに決めた私は中学の卒業式かなんかで1人ずつ前に出て感謝の気持ちやら抱負やらを発表する場で“朝鮮人らしさって?“と聞かれても恐らくうまく答えられないような薄っぺらいことを言い卒業文集にも何やら同じようなことを書いて、私は朝鮮中級学校を卒業した。

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