水溜まりの中のインク 第6話
「ねえ、もういいんじゃない? 被害者はカイってことになったんでしょ」
背後でトラットがぼやいた。キバの住む家には電気式の暖房が据えつけられていたが、さすがに暖炉ほどの威力はなく、トラットはさっきから鼻をすすっている。
「そうだけど、一応こっちも調べとかないと。証拠は多いほうがいいしね」
クローゼットの中を眺めながら、リノンは答える。キバの服は見事に黒で統一されていた。下着やベルトなどまで黒一色だったが、カイのものと違ってサイズのばらつきはない。下着の中にタオルでも詰め込んでいない限り、キバは見た目どおり中肉中背の体格だろう。
「へっくしっ! ……うう寒」
トラットは盛大なくしゃみをして、ぶるると身体を震わせた。
「いいかげんに帰ろうよぉ」
「待ってよ、あとちょっとだから。そのへんに花瓶とか灰皿とかない?」
本当の凶器である鈍器が見つかれば、キバ犯人説を裏づける大きな証拠となる。
「ないよそんなの。けど……ここに来たときから、なんか変な感じはするんだよね」
トラットは後ろ足二本で立ち、器用に腕組みをしてみせる。そんな格好つけた仕草も、鼻声と鼻提灯のせいでいまいち決まらない。
「変な感じって?」
「うーん、違和感っていうのかなあ。なにが変なのかはよくわかんないんだけど」
「なにそれ」
どうにも頼りない答えに、リノンはがっかりした。トラットはまだ考え込んでいたが、放っておいてキッチンに向かう。
キッチンには最低限の調理道具と食器があるだけで、怪しいものは見当たらない。キバはあまり料理をしないのか、カートリッジ式らしいコンロはうっすら埃をかぶっていた。冷蔵庫や戸棚にも食料らしい食料はなく、ボトル入りの飲料が数本入っていただけだ。もしかしたら、逃げるときにありったけの食料を持っていったのかもしれない。大きなリュックを背負って山へと分け入っていくキバの姿が、やけにありありと浮かぶ。
しかし、その確信めいた想像も長くは保たなかった。
「ここで最後、っと」
玄関の靴箱を開けたリノンは、中にある物を見て目をしばたたく。何足もの黒い靴のあいだに無造作に置かれているのは、またしても鬘だった。今度はキバの髪型によく似ている。
「……どういうこと」
逆立った短髪の鬘と睨み合っていると、隣でトラットが「ああ!」と声を上げた。
「そうだ、匂いだよ! この家の匂い、向こうの家のとそっくりなんだ!」
金色の目を輝かせ、踊るように飛び跳ねる。
「でも、変だなあ。匂いって、人によって違うものなんだけど。鼻詰まりのせいで感度が落ちてるのかな」
トラットは目を閉じ、ピンク色の鼻を懸命に動かしてみせた。その様子を見ていたリノンは、やがて小さくうなずき、すくうようにトラットを抱き上げる。
「おわっ? 急になにするのさ。鼻水ついても知らないよ?」
腕の中で暴れる相棒に、リノンは無理やり頬を寄せて言った。
「いいよ、それくらい。その鼻のおかげで、一つ謎が解けたんだから」
「同一人物ぅ?」
リノンの推理を聞くなり、トラットは声を裏返らせた。
「そう。ガイドは本当は一人しかいなかったんだよ。彼は一人で、カイさんとキバさんという二人の人物を演じ分けていた。つまり、一人二役ってことだね」
ふかふかのベッドに腰かけたリノンは、考えをまとめつつ言葉を紡ぐ。いちおう宿には戻ってこられたが、明日の朝にはまたハリスが迎えにくることになっている。
「そっか……だから匂いが同じだったんだ」
リノンの膝の上にだらしなく伸びたまま、トラットは納得したように何度もうなずいた。リノンと一緒にいるせいか、だんだん仕草が地球人に似てきている。
「カイさんとキバさんが同一人物だとすれば、ガイドの片方がいなくなったことにも説明がつくでしょう?」
姿が見えなくなったのは、被害者を襲って逃げたからではない。そもそも、行方不明になった者などいなかったのだ。被害者として遺跡に倒れていた人物が、カイでもあり、キバでもあったのだから。
二人が素顔を隠していたことも、それぞれの家から鬘が見つかったことも、一人二役のカモフラージュだと考えれば納得がいく。カイは大きめの服を着ることで、キバとの違いをより強く印象づけたかったのだろう。キバの家で食料が見つからなかったのは、カイの家にまとめて保管してあったからかもしれない。二つの家の勝手口は家と家のあいだに隠れるように向かい合っていたから、誰の目にも触れることなく自由に行き来できたはずだ。
「そう言われれば、声とか顔の輪郭とかは似てたかも」
「喋り方は全然違ったけどね。でも、あれもわざとだったんだと思う」
言葉遣いの丁寧さだけでなく、喋る速さや抑揚まで使い分けていたのは器用というほかない。ガイドより役者のほうがよほど向いていそうだった。
「あれ? でも、変じゃない? 二人とも被害者なら、犯人はいったい誰なのさ」
「……やっぱり気づいたか」
首をかしげるトラットに、リノンは苦笑いで返す。
「そう、そこがこの推理の難点でね」
ガイドが犯人でないなら、ほかに犯人を探さなければならなくなるが、監視カメラは怪しい人物の姿を捉えていない。しかもハリスが言っていたように、柱の状態を誰もが知っていた以上、たんなる事故――つまり、たまたま傍を通りかかったところに柱が倒れかかってきた――ということは考えにくいのだ。
「誰かに柱の傍へ行くように誘導されたってことは?」
「もちろん考えたよ」
現場には先端に土のついた板切れが落ちていた。ガイドは誰かに指示されて、柱の根元を掘ったのかもしれない。最初はそう思った。
「でも、それってつまり、騙して近寄らせるってことでしょ」
「……ああ、そっか! 嘘はつけないんだった!」
「そういうこと」
リノンはうなずく。嘘で他人を騙せないのは、なにも正直村の人々だけではない。それは嘘つき村の人々も同様だった。ある人物が嘘しか言わないのなら、その反対を考えれば必ず真実にたどり着ける。ガイドは誰がどちらの村に属するかを知っていたのだから、相手がどちらの村人であろうと、騙されることはないはずだ。
「問題はそれだけじゃないよ。正直村の人は本当のことしか言えなくて、嘘つき村の人は嘘しか言えないってことだったけど……それならどうして、ガイドはその両方を使い分けられたんだと思う?」
正直村に属するカイと、嘘つき村に属するキバ。二人を演じていた人物がもともとどちらの村の生まれなのかはわからないが、どちらにしても、真実と嘘を自在に操れるはずはない。
「二重人格とか?」
「スイッチを切り替えるみたいに、正直者から嘘つきに変わるってこと? うーん、地球とかでならありそうだけど」
残念ながら、今回は当てはまりそうにない。あの二つの村の人々の正直者や嘘つきという性質は、先祖の突然変異が遺伝したものだ。生まれ持ったアレルギー体質や身体の柔軟性と同じで、心の持ちようで変えられるとは考えにくかった。
「じゃあ、もともと村の人じゃなかったんじゃない? どっか別の地域から引っ越してきたんだ」
確かに、村の外からやってきたのなら、正直者でも嘘つきでもないだろう。しかし、ハリスはこう言っていたではないか。村が二分されてからは人が出ていくばかりで、外からは一人も入ってきていない、と。
つまり、ガイドがあの地域――正直村か嘘つき村――の出身であることは間違いなく、どういう仕掛けか、真実と嘘を巧みに使い分けられるのも本当ということになる。
「ああ、もう」
リノンは黒髪に指を入れ、乱暴に梳いた。一つ謎が解けたと思ったら、また新たな謎に迷い込んでしまった。話につき合うのに疲れたのか、トラットは身体を丸めて寝る体勢に入っている。
「ちょっと、トラットも考えてよ」
ふわふわの脇腹をつかんで揺するが、返ってくるのは規則正しい寝息ばかりだ。すでに夢の中にいるらしい。
「……んん」
面倒そうにうめいたと思えば、
「リノン……ボクのお菓子、勝手に食べたでしょ……」
ゆるみきった顔で寝言を呟く。
リノンは無言のまま、すっくと立ち上がった。膝の上から転げ落ちたトラットは、床に背中を打ちつけてニギュ、という声を出す。猫と違って受け身は上手くないらしい。
「なにすんだよ、痛いじゃないか!」
「だって、あんまり呑気に寝てるから」
「怪我でもしたらどうしてくれるのさ。ボクは惑星――の第五王子なんだからね。こんな無礼がばれたら、キミ、袋叩きの刑にされるよ」
トラットは吊り目をさらに吊り上がらせて言ったが、リノンは怖くなどなかった。
「なに笑ってるのさ」
「……べつに」
大量の猫パンチを浴びるなんて、なんとも微笑ましい刑罰だと思っただけだ。
「さては、馬鹿にしてるね? 華麗なる王家の血を引くボクを嗤おうなんて、いい度胸じゃないか。今度やったら父さんに連絡して、尻尾打ちの刑にしてやる」
「ぷっ」
リノンはこらえきれずに吹き出した。トラットはますます不機嫌になったが、ふかふかの尻尾でパシパシやられる光景が頭を離れない。
「ごめんごめん。許して、王子様」
窒息しそうなほど笑ったあと、リノンはふと真顔に戻る。華麗なる王家の血、という言葉に、脳のどこかが反応したのだ。
「……もしかして」
トラットのパンチを片腕で受け止めながら、リノンは目をすがめる。壁紙の一点を見つめ、湧き上がってきた一つの可能性に心をゆだねた。
【第7話に続く】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?