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カオスラの件で反芻したこと

カオスラにおけるハラスメント事件について、反芻したことを残しておく。

自分自身は、
  - ゲンロンのなかでも黒瀬氏が登壇する動画や講演を数える程度ではあるが視聴していた
  - 黒瀬氏が企画した展示に足を運んだ(好意的な展評も残した
  - 黒瀬氏をTwitterでフォローし紹介される執筆記事などを読んでいた
という立場の単なるフォロワーかつ部外者な立場ではあるが、現代アートに興味と期待を持っている人間ではあると自覚している。また一方で、カリスマやワンマン経営の多いデザイン、デジタル媒体、イベント系のプロダクション周辺で働いているという点も問題を身近に感じさせた。

いくつかの主題に入る前にあたって、まずは安西氏のnoteへの投稿に敬意を表したい。非常に難しい立場であるにも関わらず、冷静かつフラットに読める文章で自身への反省を含む詳細な状況を記述され、業界の体質の改善、「非対称性」に対する理解の促進に寄与しているものだと感じれられる。その心労は計り知れないものであり安易に応援を口にすることも憚られるが、表現の場で今後もしなやかに活躍してほしいと個人的におもう。

以下、主な情報源として上記の記事と、若干の二次的な感想(主にTwitterやnote)の一部意見を呼んだ上で個人的に反芻したい問題を2点書くことにする。偏った情報のみで記述していることを断っておく。

強者や多数派へ加担せずにいられるか

黒瀬氏の他の2名の行動は、立場的な強者を守るという保守的な行動であり、時系列の対応で見れば批判されうる悪手を講じたと見えるが、彼らの視点ではどういう意思決定だったかを考えたい。様々な視点の欠落のある超短期目線であるものの、有事のときにこうした応急的な意思決定をしてしまうということは、残念ながらよく起こってしまうものと感じる。

  - 短期目線で1番簡単に見える弱者の切り捨てによって組織の存続と問題の解決を図ろうとした人物
  - 調停するポーズをとっているように見えて、物言わず功績があり影響力の強い社の立役者に加担、(悪い体質のままの)強者の立場の保守存続を黙認した人物
  - おそらく両氏がこの事件の心象の悪い拡大を防ぐため、「パワハラ」という語に矮小化したプレスリリースを考案した

仮に自分が同じような場面にでくわし、かつ意思決定を求められたときどうするだろうか。例えば、
  - お世話になっている会社で、その会社の若手社員が明らかな立場的な苦境に陥っているのを目にしたとき
  - 非対称な関係の上で恋愛の提案(例えば「業界のカリスマ」に類する強者との不倫の提案)を受けている旨の相談を友人にされたとき
  - 自分自身が非対称な関係の上で強い要求してしまうとき

こういうときに、強い倫理観と自制心を持っていないと安易な道(強い体制への加担と保守・保身的な姿勢)に引き寄せられてしまうことを今一度自覚したい。

記事中の「非対称(な立場・関係)」という言葉が印象に残ったが、ほとんどの関係は非対称なところから始まると思われる。非対称性、例えば、性差から真に開放される社会というのは、(男の私見ではあるが)生物学的な性向や思考パターンの差異がある以上、難易度が高い。一方でそうした非対称性を少なからず克服する法制度も存在したり立法が進んでいる場合があり、マイノリティが守られる未来も期待できなくはない。

しかし、強い立場のほうが、一方的に弱い立場を萎縮させ、無意識的にも握りつぶしやすい、というところからスタートする、という点に改めて自覚的になる必要がある。

高邁な「倫理観」を揶揄せず身につけることが実務の上でも必要性が高まっていると思うが、強者に与せよという思考パターンや本能・衝動的な部分の矯正を伴うので難易度は非常に高い。

言行一致を保てるか

黒瀬氏に関して、最も失望させた点は、ジェンダーおよび社会的弱者の立場に理解を示すポーズで論を展開しながら、実際には強者の傲慢を体現していたことであろう。しかも彼の論自体は説明が秀逸で納得感と説得力を持っているものだ。

問題は、職業人として発言や書いたことに責任を持つべき立場の人間が、足元の個別具体的な事例でその真逆のことをしていたことだ。これによって、彼自身のこれまでの優れた仕事をすべて「見かけ上のもの」であったと判断されうるような状況になり、批評家としての高い信頼を全くの振り出しに戻してしまった。

個人的に現代美術やその周辺の言説に期待することとしては、「支配的な通念に反して自覚しづらいもの」のメディウムを介しての表象という点がある。今回は、それが完全に裏切られるような形で表に出た。確かにその業界や集団の構造上、残念ながら想像に難くない内容でもある。「これだからアート周辺は…」と主語を拡大されて批判を受けても仕方ない悪い意味で代表となる顛末だと思える。

とはいえ、小さい議論から大きい議論まで言行一致を保つということもまた実際には難しいということ認めねばならない。

- 社会制度に不満を述べながら選挙に行かない
- コロナ禍で通勤者を批判しながらも混み合う場所に毎日買い物に出かける

ということにはじまり、小さいところから上げればキリがないと思う。幸い、自分は影響力を持った批評家ではないから上記のようなダブルスタンダードを体現しても信頼を落としこそすれ、強く咎める者はいない。しかしながら良くも悪くもログを残し、過去を検索することが容易になった現在、発言に対する責任への意識のありようが信頼の強度に直結すると感じる。

この事件からやや逸れるが、黒瀬氏はよくTwitterで論争をするし、展評については概ね辛口であった。ある展示を擁護するときは、ほとんどが、特定の展示を批評する中で反証として例示されるものだった。Teresa Amabileの研究で、「好意的なレビュワーよりも批判的なレビュワーのほうが知的な印象を与える」という仮説を示したものがある("Brilliant but cruel: Perceptions of negative evaluators", Teresa Amabile, 1983. )。彼の戦略だったのであろうか、批判的な語気でもって自分含めたフォロワーを獲得していたのではと今では思う。

よく「作家の人格と作品・仕事は切り離して考えるべき」という意見を聞くが、個人的には、切り離して考えることができない。他の例で、苛烈ないじめを過去行っていたことを吐露している某音楽アーティストの音楽を聞くときに、それがどんなに耳に美しくカッコいいものだとしても、その創作の原点やモチベーションが弱者をあざ笑っているようなものに思えてしまい、どうにも健康に需要できなくなってしまったということがある。今回の事件もそれに近い変化が自分の中では起こった。個人的には、作品は、作家の振る舞いで受容の仕方を大きく変えてしまうものだと思う。

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他にも性差における類型化の利点と問題点など、派生的に考えたい問題も多くあるが、今は散漫になってしまうので別の機会としたい。

P.S.
上のような問題に対して、この記事では解決策の提案は避けていたが、以下の記事で稗田直人さんが紹介しているような、ベルリン行動規範に同調し掲げてみるというのは、ひとつの有効な手段であると思う。


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