TOKYO2021メモ

TOKYO2021を見てきた。作品をとりまとめるコンセプトがキュレーションとして巧みに機能していて、総合的に仕上がりの高い展示・設計の行き届いた丁寧な展示だと感じた。個々の作品も程度の差こそあれ総じて強度があるおもしろい作品が続いていた。この内容がタダで公開されているというのは素朴に嬉しいし文化を耕している感じがする。(きっと今後よく参照されるのではないかな。)

災害ー祝祭という対比的なゾーニングも観賞がしやすくて良い。また、取り壊し前のビルのスペースと廃材を使った企画は巧妙だと思う。東京は渋谷とか虎ノ門とかオリンピックに向けた無茶な再開発が近年の都市としての機能悪(機能美の反対)を加速させていたように思うけど、そうした東京の悪しき個性も、構造として取り込んでいたように見えた。

重箱隅的な感じで言いたいことがあるとしたらゲームエンジンから引用したタイトルぐらいだろうか。同名の作品にもそれはあてはまるが、素朴にCG系・ゲーム系に洞察がある展示であるような誤解というか期待を与えかねない。

続きは一部の個別作品への個人的なメモ。自分で写真をとったりしなかったので、Twitterで見つけた観賞のツイートを勝手に引用させていただいています。(問題あればご指摘ください)

"un/real engine", HouxoQue

水を使った作品のはずだが、一見ただの黒い床材に見える、もしくは深さ数センチ程度の水深にみえる。水が張ってある、という注意書きから水面のコースティクスやゆらぎを期待したが、それがない。まったくない。水面が乾ききって床材がそのまま出ているのかと勘違い(錯覚?)してしまうほどだった。この黒い謎のマテリアル、ただそこに硬直している黒いマッシブななにかこそが、地下(への導線)をまるごと水没させたであろう大量の水、液体なのであった。CG制作の上で、水などの反射と屈折をともなう材質の表現は処理的にも高価であるし難しい。そうした質感表現を、現実的に途方も無い労力でもって欺いたという意味でこの作品はすごい。Twitterの発言から見るにおそらく主題はもう少し展覧会によった(祝祭に「水をさす」)ものだと思われるが、自分にとってはCGの虚構としての再現アルゴリズをはるかに上回った、美的に優れた「本当の虚構」を実現している点が驚異的ま成果に思えた。地下を水で埋めたという力技も崇高さを感じる点ではあるが、それは主題とも調和させる形で地下への導線をたくみに利用した着想と、その選ばれた環境の中で結果的に生まれた水の畏怖すべき存在と質感が自分にとってのこの作品の価値だと思う。

若干もったいないと思うのは、そのヤバさは作品の表層からではなく、作家のツイートを読んで初めて真に観賞されうる点だろうか。

展示の際の説明もほぼなかった。本当に床材に見えてしまいそのまま素通りしちゃうよ問題が発生していたように思う。(それはそれでいいかもしれないけれど。)見えない部分、水没した地下などへの説明がもう少し表層から読みとれると良いなと思ったり、激しい明滅を演出するディスプレイの利用が審美的にも用途的にもフツーに見え(祝祭の表象とか水面下との対比だと思われるが)、他の出力や意匠の可能性があったのではと思ったりもした。

コンピュータグラフィクス自体は軍事技術から端を発しているが、ゲームエンジンは様々な物理演算やリアルな3DCG描写力を必要とするFPSを開発するところからスタートしている。今では任天堂のヒットタイトルの内部で動いている。道具として受容した層は、人間社会をうつす議論や政治的な動向から距離をとった者たち、もしくは純粋にゲームやCGの可能性を無邪気に信じた者たちだと思われる。それらしい3次元空間を効率よく描画するツールセットであるUnreal Engineを持ち出すならば、CGの特質や、ゲーム性といったことへの詳細な議論(David OReillyとか谷口暁彦とかが展開するような。もしくはもしくはもっと無邪気なゲーム批評とか)があるのかと勘ぐってしまう懸念がある。特に作家の命名について批判するわけではないが、個人的にはもっとふさわしいタイトルがあったのではないかと思うし、凄まじい力を持った本作をやや過小に限定してしまう名称に思えた。

同名の展覧会タイトルで使われることに関しても、「Unreal Engine」から想起されるものは、本展覧会の言いたいことを言いえていないと思う。「 ゲームエンジン」は「シミュレーション」を機能として内包しているがシミュレーションをするための道具はゲームエンジンだけではないから包含を語れず言葉の選択としてうまくない点、「エンジン」から「エンジニアリング」を結ぶのも無理があるという点が、主催が意図したであろう着地を阻害している気がしてしまった。「慰霊のあり方」や、現代日本の諸問題と藝術の関わりという意味では稀有な展示であるからこそ、そういった素朴な点を指摘したくなってしまった。

” ニシ  ポイ  ”, 飴屋法水

「地下鉄サリン事件」を題材とした作品。扱われている表現内容が剛速球すぎる。ワイドショーなどからは「アウト」とか言われて片付けられそうなものを高濃度で凝縮したような作品。そして作家がまわりでウロウロ生活している…。生活を覗くようなパフォーマンス作品は数あるが、あの作家の存在のしかたは新鮮すぎた。最初スピーカーでいびきの音だしているのかなと思ったら本当に作家が床で寝てた。部屋の壁には呪詛。骨壷は部屋の中を探して無い無いと思っていたら、外に堂々と置かれてたよう。気づかなかった…。部屋はトイレの導線上にあるから実際トイレ臭い。臭いも表現としてかなり効いている。トイレの中には作家のものらしき歯ブラシとかがあった気がする。

インスタ映えマイナス200万%みたいな感じ表現だが暴力的なまでに印象に残る。政治家に見せたい作品の今年ナンバーワン。壁の文字はおそらく某死刑囚の体験や言説の引用もしくはそれとリンクした個人の即興的な散文だと思わる。愛知トリエンナーレの議論の流れからこうした作品が置かれるのは挑発であり挑戦でもあるように勝手に思ってしまうが作家の意図としてはそんなの意に介してなさそうな気もする。

この作家の作品は観賞するのははじめてだったけど、少しググるだけでも過去のヤバい作品も出てくる。ヤバいを連呼するのも気が引けるが、人間性を問うようなショッキングな主題選択、ドストレート剛速球みたいな直接的な表現なので観賞側はそれなりに「衝撃に備える」ことが要求される。自分は衝撃に無防備だったので、作家の真意も壁面の文章もほぼ理解できていないし解釈する前に、ヤバいってなって思考を強制終了させられた感じがした。タイトルの伏せ字すらよくわかってない。

"東海道五十三童子巡礼図", カオス*ラウンジ

複数の作家によって個別に描かれた複数の善財童子普通は右手に東京、左手に京都のはずが反転されている。その反転した道中は無邪気な観光の道。東京への道は、武装を検めるセキュリティの道でもあったが、その反対は無邪気な観光の道であり、「虚構」へと帰る旅路のようである。というような説明がテキストでなされていた。

京都アニメーションの放火事件の「虚構」としてのアニメ作品のプロダクションにもたらされた「現実の暴力」を、可逆的に反転させるといった意味あいであろうか。「東京の作家」たちの慰霊として、知的におもしろいモチーフを借りているとは思うものの、真に慰霊として解釈ができたか、できうるかは疑問が残った。東海道という主要道に関する歴史的・説話的な物語を借りている構造自体はおもしろいが、慰霊としたいものが件の事件なのか、なんなのか少々わかりづらく散漫にはなっているかもしれない。作家のそれぞれの童子は、明らかに京アニ作品の外見をまとっているものもあるが、クレーの天使があったり、ナンセンスな落書き風の絵があったり。意味的にも構図や図像的にも散漫な印象をうけるが、即興性があるヘンテコな絵にしあがっててなんだかおもしろいなとは思う。良くも悪くも押し付けがましくない語りになっている気がする。

"忘れない", 渡邉 英徳

311震災時の行動をインタビュー調査から復元しGoogleEarth上に可視化した作品。作家(研究者)はWeb上で対話的に見るアーカイブ作品を多く手掛けており、本作もWeb上で見ることができる

ただ、今回は「展示物」として成立させるために、対話的な機能を取り去ったようである。この状態では、正直な感想として未熟な可視化だと感じてしまった。単純な等速移動を地図上に配しただけでは、それがなんなのかわからない。まず人の移動に見えない。飛行機にのっているように高速で駆け抜ける点もあれば、非常にゆっくりと一点に収束していく場合もある。山突き抜けるし、これ何?みたいなデータになっている。車で遠方に避難?避難所に避難?と曖昧な予測が立つのみだ。流されたのかもわからない。道なき道を歩いたのかもしれない。もしくはかろうじて道なりに歩いていたかもしれない。その人は生きたのか亡くなったのか。それは別に慰霊的に想起できればいいのかもしれないが、だとしてもこのミサイルのような軌跡は…。

Webにおいては、軌跡をクリックするとテキストで情報がサポートする形で現れるので、おおよそどういった行動をどういった形でサンプル記録したのかがわかる。可視化は、おそらく被災者の2点間の移動の時間記録を等速移動としてシミュレートしている。しかし均質に点をプロットしてアニメーションさせるだけでは、慰霊や記憶のアーカイブにはなりえない。せめてテキストの情報の粒度のみの詳細度を守って可視化するか、道路を通ったのか、流されたのか、移動手段はなんだったかなど、均質化が可能な情報を取得して区別できるように可視化しておきべきでなかっただろうか。

暗室の中に整然とおかれたディスプレイ群から察するに慰霊の装置的に見せたかったのかもしれないが、その慰霊の依代として成り立たせることには失敗している。ソフトウェアとしての振る舞いでも、GoogleMapがロードで追いついていなかったり、点群のアニメーションがあきらかにフレームドロップしていたり、可視化作品・インスタレーションとして成り立たせるまでにクリアすべき技術的課題をおざなりにしていたようにも感じられた。(Webでは問題にならない点であったとは思うがインスタレーションとして見せるならば少しばかりの洗練を…)

自分も修士論文で作家の「ヒロシマ・アーカイブ」を参照しているし、Ingo GuntherはじめData Journalismの作品群をそれなりにディグった。作家の研究や活動背景の成果をとても尊敬している。だから期待していた作品であっただけに、過大評価が先行しまくってしまったのかもしれない。普段好意的な評文しか書かないから、この作品だけなぜかめっちゃ辛く書いてしまったことに自分でも驚いた。

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メディア・アーティスト(のなかでも重鎮)に類される八谷和彦とか三上晴子の作品も、あえて初期作品を持ち出しているのがしびれた。教科書的に参照はされてこなかったが確かに素晴らしい表現だった。「知っている」と思っている作家でも、その成果は限定的にしか知らない・知られていないのだと自覚できた。高山明の作品もいま鑑賞すればこそメディア考古学っぽく受け取れるように変容していてめちゃくちゃ良かった。

真摯にコンテキストの整理がされているというのと(「キュレーション」の行き届いた展覧会ってもう芸術祭くらいしかないし)、流れがちな過去作品も朽ちさせないようなキュレータの吟二が伺える。他ビッグネームの作品ももろもろすごかったけど色々他で文章残りそうなので自分は書かなくていいかなと思う。

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