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蕗谷虹児×池永康晟『進化する美人画』展

蕗谷虹児記念館開館35周年企画の『進化する美人画』展に行ってきた。蕗谷虹児は元々女性誌の挿絵として女性像をたくさん描いていた、今で言う美人画の画家。その蕗谷虹児と、現在の日本画界において美人画というジャンルで人気を博す池永康晟を並べて新旧美人画の系譜、とまではいかずとも違いを確認してみようという展示会だ。元々大きくはない会場だし、展示規模は決して大きくはないものの、同じ美人画というジャンルでありながらも2人のスタイルの違いは大きく、時代性以上に作家自身の美人画(蕗谷虹児の時代にはそんな言葉はなかっただろうが)への向き合い方のベクトルが全然違っていて、並べて観てみるのは確かになかなか面白い企画だった。2人はまず、描こうとしている女性像がそもそも違う。

蕗谷虹児は女性が憧れる女性を描いた。あるいは幼い頃に亡くした母の面影を描いた。だからそこで描かれる女性は少し夢見心地で、現実的な肉体感はあまり感じない。そこに描かれるのは題材としては花嫁や恋人であったとしてもそれは自分の花嫁や自分の恋人ではなく、女性の目から見た憧れの花嫁や恋人の姿、あるいは自身の母がそうであっただろう憧憬としての花嫁や恋人の姿だ。だから美しさは感じても刺激的ではないし、観ている側も過剰に描かれている女性に入れ込まずに済むので落ち着いて観ていられる。蕗谷虹児の描く美人画はそういう印象だ。

対して池永康晟は男性が憧れる女性を描いた。あるいはもっと狭く、男性としての自身が憧れる女性を描いた。だからその質感は非常に現実的で肉体的で、率直にエロチックだ。そこで描かれる女性は強く、誘いはすれど媚びはせず、物憂げではあったとしても俯いてはいない。それはおそらく、モデルとなった女性たちがそうであったという以上に作家が求める女性像がそうだったのだろう。どの女性も瞳に吸い込まれるような強さと深さがあり、金蒔絵のような美しい花柄をまとった姿は目が合うと放せなくなるように引き込まれる。静かに息を呑む美しさ。実在の女性をモデルに、写実的に肉感的に描かれた女性像は、目を合わせていると絵の中の女性が確かに存在しているような思いもしてくる。

だが同時に、そうして広くはない会場の中でたくさんの女性たちの表情を眺めていると、なんだか段々落ち着かない感じがしてきた。それどころか、その落ち着かなさが高じて恥ずかしい気持ちにもなってきた。それは言うなれば、他人の恋人を気付かれないように部屋の隅や外からこっそりのぞいているような背徳感。狭いスペースで池永康晟の女性たちに囲まれていると、段々とその恥ずかしさや気まずさが心の中で増してきて、展示なのだから当然そこにいて悪いわけではないのだが、でもそれ以上は居た堪れなくなって足を外に向けて2階の蕗谷虹児の資料展示室に逃げてしまった。それは生々しさゆえなのだろうか。他人の恋人をのぞいているような、あるいは他人の恋人を、もしかしたら意図的に、見せつけられているような。

女性がこの絵を見る時、そこに自身を重ねることはあるのだろうか。同じような視線で誰かを見つめていた時の自身を。自分にとって、そこに描かれた女性たちは視線は交わっていても目は合っていなかった。彼女たちは、絵の前にいる自分ではなく、キャンパスの前の作家を見ていた。作家の恋人であって、自分の恋人ではなかった。とても生々しく美しく、目を放せない不思議な力を持っていながら、視線を交わしているのに決して手の届かない遠くにいるように思えてしまう女性たち。自分にとって池永康晟の描く女性はそのような存在だった。

考えてみるとそれはそれで凄いことで、例えば西洋画家の有名な女性画、この展示会に沿って言うなら美人画を観たところで、そんな他人の恋人をのぞき見しているような背徳感に襲われたことなんてない。ルノワールだったりブグローだったり、あるいはゴヤやミュシャが描く女性を観てそんな気分になったことなどない。単純に描かれているのが日本人だからというだけでもないだろう。それだけ力のある美人画なのだ。その力が、自分には必ずしもいい方向には働かずに観てて落ち着かない気持ちになってしまったとしても。それもまた絵が持つ力の強さに他ならない。

『進化する美人画』展、美人画の系譜というよりは蕗谷虹児と池永康晟の描く女性像の違いが際立つ展示であり、それ以上に池永康晟の強烈な個性にあてられるような展示だった。蕗谷虹児記念館を出る時のなんとなく後ろめたい感じと、外の明るさに目を細めた時の安心感は、なかなか美術展では感じ得ない不思議な感覚。それを消化して言葉に噛み砕くのに一週間以上もかかってしまった。自分にとって空恐ろしくすらある美人画だった。

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