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ノマドランドを観た。喪失を抱えるという決意。記憶のなかに生きるという決意。

かつて栄えていた採掘場が、閉鎖された。
産業城下町だった”Empire City”は郵便番号ごと消滅。
中年女性ファーンは家も仕事も失い、おんぼろ車に車中泊しながら
アメリカ国土を転々とし日雇いの季節労働で食いつなぐ旅に出た。

アメリカの壮大な景色が美しく
ファーンの旅は貧困であっても出会いや楽しみがあり明るく描かれている。
・・・という前評判だったが、私の印象としては
寒い、お金ない、体に悪そうなものばかり食べてる・・・つ、つらい・・・
で、決して明るいようには見えなかった。
この辺は多分、個人によるのだろう。

途中の景色は美しく、ファーンの楽しげ観光タイムもありますが
そういったシーンに音楽をつけない演出をしており
映し出されている情景が喜怒哀楽の何を意味しているのか
ファーンはどう受け止めているのか
作り手側は押しつけてこない。観る側に委ねている。

貧乏旅行を愛する若者マインドの人は「楽しそう!」って受け取るのかも。多分、セレブの昼シャン大好きママ友なんかが見たら
「貧乏って大変だね。あんな苦労しないで、ちゃんと働いていて、きれいな景色見たければ旅行で見ればいいのにね」という格差丸出し感想に到達する映画かもしれない。

以下、ネタバレしかありません。

貧困映画として、だけではなく

この映画では実際のアマゾンの物流拠点での労働現場が撮影されてたりして
「現代の貧困」とか「中流からの転落」とか「高齢者の貧困」が
この映画の肝とされてます。
それもたしかにドキュメンタリーぽくて興味深かったのですが
経済的な苦境だけではなく
ファーンの「喪失」をめぐるドラマに私は心惹かれました。

なぜファーンはノマド生活を頑なに続けるのか

ファーンは親戚や友人から何度か「この家に一緒に住んで」と誘われます。
素敵な家の外観。
フッカフカのきれいなベッド。
缶詰じゃないおいしいご飯。
会話やぬくもりや音楽。
外がどんな天気でも心配いらずの屋根付きの家。

でもファーンは毎回、断ります。
その一方で、同じノマド仲間だったデビットが
息子から「一緒に住もう」と誘われた時、ファーンは全力で彼の背中を押します。
戸惑い、迷っているデビットに
「大丈夫よ!良いおじいちゃんしなさいよ!」と。

息子たちと屋根付きの家で暮らす生活がデビットにとって幸せだと
ファーンは疑いなく思っているから、
あのとき躊躇なくものすごい勢いで同居をすすめたのです。
ファーンはノマド生活が「あえて選ぶべき良い選択」だとは思っていない。
それが刺激的でかっこいいアメリカの開拓者的生活だなんて思ってない。
人にはノマド生活をやめることを躊躇なく薦めたのに
なぜ彼女自身は一つ屋根の下での誘いを断り続けるのか。

エンディングは、この後も彼女の過酷な生活は続くことを示唆しています。プライドの問題?自分だけはノマドが好きという自認?自由が大事?

映画を見終わった後しばらく考えていたのですが、私なりの答え、出ました。

喪失から引きずり続けるファーン

ファーンが失ったのは家や仕事だけではなく、夫をも失っていました。
順序的には
 夫をがんで死別
→それでも廃れつつあるEmpire Cityに住み続ける
→廃村によって家と仕事を失う
→ノマド生活

ファーンが真に憂いているのはノマド生活の過酷さではなく
夫や両親を失ったこと。
そしてそれを引きずり続けていることです。
夫の形見のジャンパーを着て、父の形見のアンティーク皿が割れてもボンドでつなげて持ち続ける。
彼らの古い写真を見ては満面の笑顔になる。
夫は亡くなっても結婚指輪をし続けている。
自分でもおかしいことだと思っているけれど
「輪(リング)はずっと周り続けるの。だから愛は永遠なの」
という老婦人の言葉にホッとしたように笑顔になる。

「私は夫の死を引きずりすぎてしまった」

ファーンは口にします。そうなのです。

旅は、過去を乗り越え新しい一歩を踏み出す契機として描かれがちですが
ファーンの旅は常に喪失とともにあります。
そしてそれこそがファーンがノマド生活を続ける理由ではないでしょうか。

過去にとらわれて生きよう

後半の後半で、ノマド生活者のカリスマ・サンタクロースみたいな
ボブ・ウェルズさんがファーンに言います。
あ、正確なセリフは忘れてしまいましたが
「亡くなった人は私たちの記憶のなかで生き続けているんだ。それでいいんだ」的なことを言うとファーンは嬉しそうに笑います。

吹っ切れたように、Empire City 近くに残していた貸倉庫を解約して
今まで大切にとっておいた思い出の品を全て廃棄します。
そして、かつて夫と住んでいた思い出の社宅を訪れるのです。
本人も語っていた通り、普通の家です。
大きくもないし、オシャレでもないし、個性のない社宅。
家のなかはガラーンとしてます。
「普通の家よ。社宅。
 でもね、ひとつだけ特別なことがあるの。
 ベランダからの景色。ずーっと地平線が続いているの。ずーっと」
ファーンがベランダにたどり着くと
そこには言葉通りの果てしなく続く砂漠の地平線が広がります。
壮大な荒野。
ファーンはベランダからその荒野に下り立ち、トボトボと歩いて
やがてカメラからフレームアウトして映画は終わります。

多分、ファーンは延々と続く地平線の景色の一部になったんだと思いました。
ファーンは広いアメリカをあちこち流浪してましたが、
実はこの社宅から見える景色のなかをウロウロしているつもりだったのです。
幸せだった社宅のベランダから最愛の夫が見守ってくれている。
自分がどこにいても、思い出の品を廃棄しても、自分も夫もここで生きている。
私のホームはここであり続ける。

そして彼女は新しい幸せを拒み続ける決意をしたんだと思うんです。
幸せだった頃の記憶にとらわれる決意だと思います。

人は悲しみを乗り越えることを期待されます。
ずっと辛気臭い顔でいられると、周囲まで暗い気持ちになりますから。
貧困からぬけることも期待されます。
そんな人たちを放っておくと、周囲の良心が痛みますし。

それで「新たな一歩を踏み出す!」というと聞こえはいいですが
正直、年齢を経てくるとそんな体力も気力もなくなってきます。
死んだ夫を忘れたくない。今も普通に悲しい。新しい恋などしたくない。
かつての仕事、かつての友人、かつての家族、住んでいたホーム。
幸せだった頃の記憶を大切にしたい。新たな幸せで上塗りしたくない。
そこに捕らわれ続けながら生きちゃいけないんですか。
いいじゃないですか。

おそらくは多くの高齢者はそうやって生きていると思います。
現在、命はあるけれど、過去に生きている。
話すことは昔の思い出ばかり。この先に希望などない。
そんな日々がつらくないというのは嘘になるけど
過去の記憶こそが、今生きる現在の灯となってくれている。

それでいい。

そんな映画なのではないかと思いました。

そういう視点から見ると
貧困を全否定しているわけでもなく、全肯定しているわけでもない映画だと
思うんですよね。
貧困はつらい。でも貧困でもいいじゃないか。
という絶妙な立ち位置。
多分、中国の監督らしいので、その辺がちょっと東洋的なんでしょうかね。

いろいろ考えさせられた映画でした。

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