ただ、書く。
昨日書いたことに律儀であろうとして今日もこうしてパソコンに向かっているわけだが、何を書こうか、決まっていない。
考えていることがないわけではない。ただ、ぽっと頭に浮かんだことが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。時折それを書きだしてはみても、断片だけで広がらない。手書きとは異なり、パソコンでは書くのも消すのも容易なので、ちょっと書きだしてもすぐに消してしまう。消せてしまう。
思考は止まってはいないが、流れが急で、何も拾い上げられないという感じだ。つかんだと思っても、魚がぬめっと逃げるように、その感触だけを残してすり抜けていってしまう。
それでも何か書こうとしている。しょうがないから、こうして書けないということについて書いている。こんなしょうもない感じですみませんね、と頭の中で設定した読者の方に言ってみる。そのこと自体のしょうもなさを思って、またしょうもないと思う。しょうもなさの連鎖。苦笑である。
ちょっと内なる太宰さんに影響されて「苦笑である。」なんて書いてしまった。私の脳裏に浮かんできた作品は『一日の労苦』と『懶惰の歌留多』である。せっかくだから一部引用して紹介しておこう。これを読んで、興味がでたら全部読んでみてください。たぶん、元気が出ますよ。
ここ数日でいくつか記事を書いて、noteを書き始めた当初よりも確実に読まれることを意識するようになっている。というか、意識させられている。
noteを開けば「〇〇の記事が〇回読まれました!」というモーダルウィンドウが出るし、通知のベルマークは「〇〇さんが○○に「スキ」しました!」と嬉しそうに教えてくれる。
読まれることも「スキ」という評価も嬉しいし、きっとnoteさんはモチベーションの向上のためを思って、このような機能をつけてくれているのだと、ありがたくも思っている。
けれど、私は正直、それらを受け取るだけの体勢がまだうまくとれていない。読まれるということに自意識過剰で、一喜一憂しまいと思っても、やはり一喜一憂しているところがある。
もっと書くことに淡々としなければなるまい。自意識過剰はきっと書き続けて慣れることでしか克服できないだろう。書くことと読むことについての自意識が薄らいでいくのか、あるいはある種の諦めによって開き直るのか、はたまた別の認識を獲得するのかはわからない。ずっと変わらず、消えないかもしれない。
まぁ、それでも書かないと「今日も書かなかった」という思念が安眠の妨げになるだろうから、書いた方が良いのだろうし、どこかしらでやはり書きたいとも思っているんだろう。いつかこの文を読み返して、こんなふうに思ってたこともあったな、と思うのであればそれも一興だ。
読み返して、今日は昨日にもまして書いていることが支離滅裂だ。
言い訳がましい文が続いたが、まぁ、いいか。太宰さんだってそうだし。
こういう適当さを私はもう少し取り戻した方が良いだろう。うんうん。
ただ、独り言のような文章でいいから、書き続けてみること。これが何になるかはわからない。その問いは一番初めに書いた記事で答えた。ほら、あの日書いたことは今日の回答になっている。とりあえずのところはそれでいい。今日書いたことも、未来の私の何かの役に立つかもしれない、役に立たないかもしれない。それでいい。ただ続けること。当分の間はそれをする。それだけ。
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