ただ、書く。

昨日書いたことに律儀であろうとして今日もこうしてパソコンに向かっているわけだが、何を書こうか、決まっていない。

考えていることがないわけではない。ただ、ぽっと頭に浮かんだことが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。時折それを書きだしてはみても、断片だけで広がらない。手書きとは異なり、パソコンでは書くのも消すのも容易なので、ちょっと書きだしてもすぐに消してしまう。消せてしまう。

思考は止まってはいないが、流れが急で、何も拾い上げられないという感じだ。つかんだと思っても、魚がぬめっと逃げるように、その感触だけを残してすり抜けていってしまう。

それでも何か書こうとしている。しょうがないから、こうして書けないということについて書いている。こんなしょうもない感じですみませんね、と頭の中で設定した読者の方に言ってみる。そのこと自体のしょうもなさを思って、またしょうもないと思う。しょうもなさの連鎖。苦笑である。

ちょっと内なる太宰さんに影響されて「苦笑である。」なんて書いてしまった。私の脳裏に浮かんできた作品は『一日の労苦』と『懶惰の歌留多』である。せっかくだから一部引用して紹介しておこう。これを読んで、興味がでたら全部読んでみてください。たぶん、元気が出ますよ。

 一月二十二日。

 日々の告白という題にしようつもりであったが、ふと、一日の労苦は一日にて足れり、という言葉を思い出し、そのまま、一日の労苦、と書きしたためた。
 あたりまえの生活をしているのである。かくべつ報告したいこともないのである。
 舞台のない役者は存在しない。それは、滑稽である。
 このごろだんだん、自分の苦悩について自惚を持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。

 やさしさだけが残った。このやさしさは、ただものでない。ばか正直だけが残った。これも、ただものでない。こんなことを言っている、おめでたさ、これも、ただものでない。

 その、ただものでない男が、さて、と立ちあがって、何もない。為すべきことが何もない。手がかり一つないのである。苦笑である。

 発表をあきらめて、仕事をしているというのは、これは、作者の人のよさではない。これは、悪魔以上である。なかなか、おそろしいことである。

 くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈はずだ。

太宰治『一日の労苦』https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1592_18113.html

すべて、のらくら者の言い抜けである。私は、実際、恥かしい。苦しさも、へったくれもない。なぜ、書かないのか。実は、少しからだの工合いおかしいのでして、などと、せっぱつまって、伏目がちに、あわれっぽく告白したりなどするのだが、一日にバット五十本以上も吸い尽くして、酒、のむとなると一升くらい平気でやって、そのあとお茶漬を、三杯もかきこんで、そんな病人あるものか。

 要するに、怠惰なのである。いつまでも、こんな工合いでは、私は、とうてい見込みのない人間である。そう、きめて了うのは、私も、つらいのであるが、もうこれ以上、私たち、自身を甘やかしてはいけない。

 苦しさだの、高邁だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一口噺でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである。

 そう思って、しかめつらをして机のまえに坐るのであるが、さて、何もしない。頬杖ついて、ぼんやりしている。別段、深遠のことがらを考えているわけではない。なまけ者の空想ほど、ばかばかしく途方とほうもないものはない。悪事千里、というが、なまけ者の空想もまた、ちょろちょろ止とめどなく流れ、走る。何を考えているのか。この男は、いま、旅行に就て考えている。

太宰治『懶惰の歌留多』https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/279_15089.html


ここ数日でいくつか記事を書いて、noteを書き始めた当初よりも確実に読まれることを意識するようになっている。というか、意識させられている。

noteを開けば「〇〇の記事が〇回読まれました!」というモーダルウィンドウが出るし、通知のベルマークは「〇〇さんが○○に「スキ」しました!」と嬉しそうに教えてくれる。
読まれることも「スキ」という評価も嬉しいし、きっとnoteさんはモチベーションの向上のためを思って、このような機能をつけてくれているのだと、ありがたくも思っている。

けれど、私は正直、それらを受け取るだけの体勢がまだうまくとれていない。読まれるということに自意識過剰で、一喜一憂しまいと思っても、やはり一喜一憂しているところがある。

もっと書くことに淡々としなければなるまい。自意識過剰はきっと書き続けて慣れることでしか克服できないだろう。書くことと読むことについての自意識が薄らいでいくのか、あるいはある種の諦めによって開き直るのか、はたまた別の認識を獲得するのかはわからない。ずっと変わらず、消えないかもしれない。

まぁ、それでも書かないと「今日も書かなかった」という思念が安眠の妨げになるだろうから、書いた方が良いのだろうし、どこかしらでやはり書きたいとも思っているんだろう。いつかこの文を読み返して、こんなふうに思ってたこともあったな、と思うのであればそれも一興だ。

読み返して、今日は昨日にもまして書いていることが支離滅裂だ。
言い訳がましい文が続いたが、まぁ、いいか。太宰さんだってそうだし。
こういう適当さを私はもう少し取り戻した方が良いだろう。うんうん。

ただ、独り言のような文章でいいから、書き続けてみること。これが何になるかはわからない。その問いは一番初めに書いた記事で答えた。ほら、あの日書いたことは今日の回答になっている。とりあえずのところはそれでいい。今日書いたことも、未来の私の何かの役に立つかもしれない、役に立たないかもしれない。それでいい。ただ続けること。当分の間はそれをする。それだけ。

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