言葉の出力形式

前回の記事を書いてから少し日が空いた。
それだけで今こうして書いていることに身構えてしまう自分がいる。
身構えると文の流れが悪くなり、言葉は身体を離れていく。身体を離れた言葉ほど硬い文章になり、書きにくく、また、読みにくくなる。

「何を書こうか」と身構えず、考えないで書くには、短くてもいいから毎日書き続けている方が良いのだろう。考えないで書くということは、とりあえず書く(実際には、パソコンを前にしてキーボードを打つ)という動作をすることだ。それを毎日行うことで、身体が書くことに慣れていく。それにともなって思考の流れもよくなるだろう。喋るように書く。口には出さない口述筆記のように。

喋るように書く、と言ったが、周知のように言文一致は明治時代以降のことで、口語で文章を書くようになってからの歴史はまだ浅い。
言文一致の実践が広がる前までは、文語体と口語体は分けられていたというが、その時代の人たちはどのように考え、書いていたのだろう。
まず口語体で考えて、それを文語体に変換して書き表していたのか?
そうではなく、文語体で考えて、それをそのまま書きつけていたのだろうか?
口語で話すときと文語で書くときでは、思考の流れの勢いや速さにどんな違いがあっただろうか?

言文一致後の文学についても、口述筆記したという太宰さんの『駆込み訴え』、安吾さんの『新カナヅカヒの問題』『文字と速力と文学』などを読んでいて、言葉の出力がどのように行われたか、その出力形式が思考や作品にどう影響したかということに興味がある。

高校では世界史選択だったために日本史は大雑把にしか理解しておらず、大学では日本語日本文学を専攻したものの、言文一致以前の文語と口語の関わりについては疎いまま卒業してしまった。日本語史の授業も受講したが、読み方が現代日本語とは違ったであろうこと、話す速さも格段に遅かっただろうということしか覚えていない。そもそも、昔の日本語の音声データは当然存在しないので口語体と文語体を比較するのは難しい。

とはいえ、現在でも書き言葉と話し言葉が分けられていないわけではない。文語と口語を使い分ける感覚は、敬語を使い分けるときのそれと近いのではないかと自分の感覚に引き寄せて推察しもする。

だが、バイリンガルの人たちが度々「日本語で考えるときと外国語で考えるときでは、考え方や性格が変わっている感覚がある」と言っていることからも、両者の乖離が今よりもずっと大きいならば、思考のあり方も文語と口語で大きく異なったのではないかと思うのだ。いわば、考え方のOSが全然違うのではないかと。その感覚がどういうものかを知りたい。

9月からフランスに行くわけだが、フランス語でものを考えられるようになったらまた世界の捉え方、表し方も変化するだろう。それもまた、留学の大きな目的の一つであり、楽しみである。

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