わたしのこと~自己紹介~(最終更新2024.10.10)
特定非営利活動法人ウィーズ 理事長の 光本 歩 です。
わたしの自己紹介をこちらの記事でまとめておきます。これでもだいぶ端折っています(笑)
随時更新していきますので取材やヒアリングの際は事前にご覧いただけるとありがたいです。とにかく長いので、ご関心あるところだけ読んでみてください。
■大まかなこれまでのこと(概要)
・1988年8月、大阪で生まれる
・2002年7月、親が離婚・夜逃げして静岡へ
・2007年3月、静岡の高校を卒業する
・2007年4月、東京の大学に入学
・2007年3月、塾講師とコールセンターの仕事を始める
・2008年3月、東京の大学を中退
・2009年7月、学習支援塾を個人事業で立ち上げ
・2010年10月、NPO法人Wink(千葉県柏市)理事
・2016年3月、NPO法人ウィーズを立ち上げ
・2018年1月、NPO法人ウィーズ理事長に就任
・2019年8月、LINE相談スタート、面会交流支援無料化スタート
・2021年6月、みちくさハウススタート
・2022年12月、チャンピオン・オブ・チェンジ日本大賞(CCJA)大賞受賞
・2023年9月、ICC KYOTO 2023 ソーシャルグッド・カタパルト5位入賞
・2024年4月、パランパルミルの日本導入に向けた事業着手
・2024年7月、第61回社会貢献者表彰受賞
■経歴の詳細
□うまれ
1988年8月、大阪にうまれました。父は電気工事士、母は専業主婦でした。
父が40歳、母が30歳の時の子どもです。
生まれつき心臓に疾患があり、身体を動かす機会(体育の授業など)はお休みしなければならないときもあったのですが、基本的には子どもの頃からとても元気です。
市営団地に住んでいて、3DKの間取りだったと思いますが、私にとっては2DKみたいな感じでした。というのも、母は基本何もしない人だったので、とにかく家の中は汚く、一つの部屋は入ることができませんでした。
そこの住人だったのに、そこを去る時までその部屋に何があったのかわかりません。なんとなく「あのふすまの向こうには4畳半の部屋がある」みたいなことを聞いたことがあるようなないような、という感じの記憶です(笑)
昭和の最後の年、まだバブル期で、父は仕事は山ほどあったみたいです。基本的には父は家にいなかったですが、休みの日はどこかしら、遊びに連れて行ってくれていました。
あの頃、たまごっちとかめっちゃ流行っていた(しかも出始めはとにかく高い)のですが、すぐに買ってくれました。小学3年生くらいまでは、恵まれた家庭に育っている「感じ」だったと思います。
□両親の離婚前
小学4年生から、なんとなく家庭が壊れていくのを感じていました。
母が私を連れて、私の小学校のお友達のおうち(マンション)に行くのに、なぜか「あなたはここで待ってて」とエレベーターホールで待たされて、母の様子を離れてみていました。
遠くからでも分かったのは、母がお友達のお母さんからお金を借りているということ。2,000円とか、3,000円とか、それくらいの額です。
そして母が戻ってくると、一緒にスーパーにいって今日の食材を買うのです。こんなことが、1度ではなく何度もありました。
それで、「あ~、うちってお金ないんだ」と思うようになりました。
そう思うようになってからは、電気やガスが止まるとか、お父さんにもらったおこづかいがないとか、そういうこともよくありました。ライフラインについては、しばらくは父が帰ってくるまでには復活するよう、母はこれらのたびに何とか金策を講じていたようです。
学校からの帰りに「光本ちゃんだよね?お父さんとお母さんは?」と、いかにもこわそうなオジサンに声をかけられたこともあります。走って逃げたのですが、ゆくゆくわかったのは、借金取りの人だったということです。
別の日、玄関がノックされて、のぞき窓から見たときに同じ人がいました。「いるんでしょ?お金返してもらわないと困るんだよね」と言っていました。その時は母の指示で、電気を消して息を殺して、居留守を使いました。
そんな家にいるのも嫌になってきたとき、私の逃げ場は「学校」でした。学校にいる間は自分のことができるし、友達や先生も好きでした。特に放課後の「いきいき活動」(学童)は、下の学年の子と一緒に遊んだり、先生たちといろんな話ができたりして、私の癒しの時間になりました。
ここから「学校の先生になりたいな」という夢も持つようになりました。
□両親の離婚のとき(2002年)
もう終わったな、と言うのは2002年の6月25日、私が中学2年生の時です。父は電気工事士を自営業でしていたのですが、3人ほど職人さんを雇っていました。
毎月25日は給料日で、その職人さんたちがうちにきて、みんなでごはん(だいたい唐揚げがメイン)を食べてお話ししながら、今月のお給料を父から手渡しするのです。この日も25日だったので朝から私は「あ、今日はからあげの日だ」と思っていました。
そして、早めに家に帰ったら、ほぼ同時に父も帰ってきました。
後にも先にも見たことのない、すごく怖い表情をしていました。
『今日○○(職人さん)らに渡す金が全部ないやんけ!お前抜いたんやろ!』
と父が母に怒鳴ります。最初は母はしらばっくれましたが、父は銀行員から防犯カメラを見せてもらい、そこに父の口座からお金を抜く母と、幼い妹が映っているところまで確認して帰ってきていました。
私は、『あ~あ、バレた』と思いました。
母がちょくちょくお金を借りているのは知っていたし、電気が止まったりガスが止まったりもしていたし、さすがに中学生ともなれば状況はわかります。
父はもうどうにもならないということで、職人さんたちにその夜、頭を下げ、仕事を続けられないことの説明と、離婚の決意を話していました。職人さんたちも父も泣いていたことを覚えています。
その後も止まらず、いろんなところから督促が届きました。父は仕事に行かなくなったので、そこから毎日のように新たな借金や未払いの事実を知っていきました。
母は何度も「なぜこんなにお金を使ったのか」と聞かれていましたが、ただ黙るだけでした。黙るだけなのでイライラした父が暴力をふるうこともありました。団地の間取りは逃げ場がなく、目の前で繰り広げられるその光景に吐き気がすることもしばしばでした。
「このままだと、この家の誰かが自殺するか、誰かが誰かを殺害するかもしれない」と思って、家にいるのも嫌だけれど、出ていくのも怖い、一旦出て帰ってくるのも怖い、という思いになりました。
その後、わりと早い段階で本当に離婚することが決まり、私と妹は父と夜逃げすることが計画されているらしいということもわかってきました。友達には言ってはいけないと言われました。
夜逃げの直前に、父は物静かなトーンで『もう最後だから、何にお金を使ったのかだけ聞かせてくれ、責めることもないから』と母に告げました。
すると、これまでずっと黙っていた母は泣き出し、『あゆみ(私)と△△(妹)も可愛いけど、○○も可愛いんだもん!』と叫びました。
「○○」というのは、母の娘のことです。私もこの時初めて存在を知ったんですけどね(苦笑)
いや、存在自体は知っていました。「○○ちゃん」と聞いて、すぐに「あの子だ!」と思い浮かぶ子がいたからです。小さいころ、よく遊んでたんですよね。まさか異父姉だったとは。今となって思えば、○○ちゃんと母はあのとき、面会交流をしていたのかもしれません。
驚くのは、○○ちゃんのお父さんなのですが、今は母の一番上の姉と結婚しているんです。それで、母は姉から「(電気工事士で儲かっている)旦那の金があるんだから、お前の子どもに養育費をはらえ!」と言われて、言われるがまま払っていたようです。うちの母、本当にNOが言えないのです・・・・。
お金使っていた割には金目のものが増えたわけではないし、母が散財している感もないし、私たちも何か買ってもらったり、どこかに連れて行ってもらったりしたわけではなかったので、使途は私も疑問でしたが、それを聞いて、なるほどなとは思うところがありました。にしても、払いすぎだし、父も父で気づけよと言う話だし、ツッコみどころは山ほどあるのですが・・・・。
こうして「お母さんにとって、お父さんは初めての旦那さんではない」「どうやら私には父違いの姉がいたらしい」という新たな事実もでてきたわけですが、この時はもう混乱要素が多すぎるのと、ダメージもいろいろありすぎて、受け止める余裕はありませんでした。
小さい頃はすごく恵まれた家庭に育ったと思っていたのですが、それも偽りであったのだと感じました。
あとのことは、よく覚えていません。
ただ、もうひとつだけとてもよく覚えているシーンがあって、最後の休日、近所の商店街に父と母と妹と4人で行ったのですが、横並びで広い歩道を歩きながら、『こうして歩くのは最後だな』と思った場面。悲しいほどよく晴れていて、気持ちのいい夏日でした。
□両親の離婚後(~2004年)
2002年7月10日です。新大阪駅から、始発の新幹線に乗るために朝早く、まだ暗いうちに家を出ました。父の釣り仲間が、車で送ってくれたのを覚えています。父はその人には事情を話していたんだと思います。
生まれ育った大阪から父の姉が住む静岡への夜逃げです。
母との最後もよく覚えていません。暗かったので顔も見ていないし、寂しいとか辛いとかいう感情もありませんでした。
学校の友達にもバイバイを言えずに突然の転校となりました。幼稚園・小学校からずっと一緒の幼馴染もいたのですが、急な別れになってしまいました。
そして一番の大問題がありました。
それは、夜逃げだと転校できないことです。
(そりゃそうだ、と言う話ですが当時は思ってもみなかった)
私と妹は『居所不明児童生徒』になりました。
居所不明児童生徒とは学校や家庭、地域から忽然と消え、その後の行方がわからない子どものことですが、私たちのように「転校します」などといわずに突然学校に来なくなれば、当然元の学校は転出手続きは取れないですし、受け入れ先の市区町村の学校なんて、その子の転入手続きが発生することを知る由はないですよね。
通常は学校間で成績や授業進度の共有をしたりするのだと思いますが、そういったことはなされず、私は「義務教育といいつつ、結局親が動かなければ学校にだっていけないじゃん」と感じました。
私の場合は、「学校の先生になりたい」という夢をかろうじて持っていて、その夢を叶えるためには高校・大学はでないといけないという最低限の情報は持てていたので『学校に行きたい』ということを父に伝えることができました。
父も離婚にまつわるダメージでかなり弱っていましたが、なんとか動いてくれたので、新しい土地でも中学校に行くことができるようになりました。
それでも4か月分くらい授業は進んでしまっていて、ついていくのにやっとな感じではありました。
すぐに中学3年生になり、学校の先生になるという夢のために高校進学を希望していましたが、お金がないために「高校に行くなら自分で稼いで通いなさい」と言われました。
そのため、私立のすべり止めなし、公立だけの受験で進学を目指すことにしました。
当時の静岡の公立入試は前後期制でした。
前期は8割の受験生が落ちると言われていて、狭き門に入ることができず不合格となりました。
すると当時の中学校の担任の先生から「後期はレベルを下げて受験した方が良い」と言われました。すべり止めがないから当然ですね。
後期も落ちたら4月からの行き場所がなくなり、先生たちも困るでしょうから・・・・(笑)
というわけで、レベルを下げて受験し、なんとか合格。
行きたい学校ではなかったですが、公立高校には入れたので高校生になれることとなりました。
学費(月1万円ちょっと)・交通費(月7千円くらい)・携帯代は、自分で払うことが条件です。
□高校生のとき(~2007年)
思えばここが、私の人生にとっては大きな転機だったのだと思います。高校へは自分で学費等をはらわなければいけなかったので、必然的にアルバイトをしなければなりませんでした。
ただ、進んだ高校は進学校だったので基本的にアルバイトは長期休みのみ。
そのため父は入学式が終わった後、早々に担任の先生を呼んで、私がアルバイトをしないと高校に通えないことを伝え、職員会議にかけてもらって特別に許可を取りました。
最初から担任の手を煩わせる生徒でしたが、その先生との出会いが、私を強く優しく支えてくれました。
先生は自分の当事者経験を開示しながら、私の話をよく聞いてくれました。入学式の翌日には面談をしてくださり、一緒に卒業までの計画を立ててくれました。
私が「学校の先生になる」という夢を叶えるのは、とても難しいことであったからです。
私は夜逃げで静岡に来ているので、親は当時住民票を動かしておらず、基本的に奨学金の審査は受けられません。当然貯金もありません。
4年制大学に進む唯一の道は「独自の特待制度がある大学に、入学金・授業料免除の特待で入学する」というものでした。
その道を具体的に先生が示してくださったことで、『親がどうする、ということではなくて自分の努力次第でなんとかなる道があるんだな』と思えたことが私の希望になりました。
私は持病の関係で運動系の部活はやりたくてもできなかったことがあり、基本的には絵を描くことが好きでした。それで、美術の先生になりたかったのですが、特待をとるには、3年間の間に「常時学年3位(定期テスト)」「全国コンクール入賞2回(絵画)」「100万円貯める(進学が叶った時の一人暮らしを始める費用)」の3つの条件を達成する必要がありました。
そのために、先生とたてた毎日のタイムスケジュールがこちらです。
高校時代の3年間は、このスケジュールで過ごしながら、いろんなことを経験したり、乗り越えたりして過ごしました。
頑張っても頑張っても学年で頭のいい双子がいて1位・2位がとれなかったり、絵を描くことに没頭しすぎてバイトに遅刻したり・・・(笑)
実は、母との最初で最後の面会交流もしています(父に内緒でバイト代で大阪まで会いに行った)。
そこに母は当時の彼氏を連れてきたので『誰のせいで私は今こんなに大変だと思ってるんだ!!』と内心思いましたが、この面会交流で母と1:1で対話し、自分の目肌で感じられ、ちゃんと言えなかったバイバイを言って別れられたことは、確実に私が親の人生と自分の人生を切り分ける一助になりました。
振り返れば辛いことやしんどいことも山ほどあったのですが、高校時代は充実していたなと思います。
それは親以外に、私が負の感情をぶつけられる先があったからだと思っています。
受け止めてくれたのは時に友人であり、時に絵を描くことであり、勉強であり、さまざまですが、たまたま担任の先生が3年間変わらないクラスであったこともラッキーでした。
先生は私にとって、恩師であると同時に親のようでもあったし、きょうだいのようでもあったし、頼れる人でした。でも「支援者」ではなかったような気がします。
支援する・されるといった関係性ではない、もっと豊かで温かな関係性の中で、私の心を守ってもらったなと思っています。
□高校を卒業した後(~2008年)
いろんな支えがあって、無事に特待で大学に入ることができました。
合格発表の日が3月23日だったので、卒業式も終わって、もう新年度ギリギリ、みたいな時期だったのがほんとうに心がきつかったです(笑)
しかも合格通知が届くと同時に大学から連絡が有り、新入生代表挨拶をすることになりました。いろんな準備もあって本当に忙しい2週間ほどでした。
受かれば塾講師とコールセンターのバイトをする。
落ちたらコールセンターに就職する。
ということで計画していたので、すでにバイト先は決めていました。なんでコールセンターにしたかというと、時給が高いからです(笑)
塾講師のアルバイトは大学に落ちたらできない(大学に在学しているか卒業しているかが条件だったため)、という感じだったのですが、無事にそのまま採用してもらえたので、平日は学校後に塾、土日はコールセンター、というスケジュールで計画しました。
塾のアルバイトは、厳しい研修を受けて上長のOKが出ないと集団授業は持てないなどのハードルがあったのですが、なんとかパスして、まるで学校の先生のような体験ができたことがとても楽しかったです。
コールセンターは、日に日に人がいなくなっていく(やめていく)スピードに驚きましたが、電話でのコミュニケーションで問題解決していく日々は面白くもありました。
大学の授業も「夢に近づいているんだな」と思えて、とても前向きに受けることができました。
しかし、入学して2か月後に2つの事件が起こります。
ひとつは、大学からの教材費の請求。教材費の請求がある、ということは知っていたのですが、教材だからそんなに大きな額じゃないだろうと思っていたところ、なんと60万円・・・・!私が考えていた3倍くらいの額でした。私立大学だったからか、学長の本とかがたくさんリストに入ってました(笑)
さすがにそれは免除の対象にならないので、そんなに高いんか・・・・どうしようorz・・・となりました。
そしてもう一つが父の入院。胃潰瘍でした。
私が家を出た後も、父と妹(6個下)はそのまま父の姉の元で暮らしていたのですが、父の姉もまた強烈な人だったんですよね。
怒りのスイッチが入ると包丁を振り回したり、気に食わないことがあれば超不機嫌な態度で威圧したり、「私が子どもの頃はきょうだいの世話で中学校にすら行けなかったのにおまえは恵まれすぎている」とどうしようもない比較をされたり、感謝の強要をされたり。
高校時代は勉強に部活にバイトにと身体は辛かったのですが、父の姉と顔を合わせることの方がしんどかったので、むしろ心は楽でした。
そんな環境だったので、父が胃潰瘍になるのもわかるわ、という感じでしたが、何より心配なのは妹のことでした。彼女はちょうど中学生になりたてで、運動部に入って頑張りたいと言っていました。
私がすでに家を出ており、父も入院しているとなると、父の姉の怒りや不満のはけ口が妹に全集中するのは火を見るより明らかでした。加えて、時間もお金もかかる運動部に入りでもすれば、火に油を注ぐようなものでしょう。だからといってその希望を諦める必要なんて、罪のない妹にはないのです。
そういうわけで、総合的に考えた結果、
妹の「今」を私は優先したいと思い、教材費の60万円は何とか頑張れば払えなくもなかったのですが、大学を辞めて静岡に戻り、マンションを借りて妹と住むことにしました。退院したら父も一緒に住むことを見越して、広めのマンションを借りました。
たった2か月で、新入生代表挨拶をした学生が中退するということで大学からはそれはそれは反対されたのですが、それでも決断することにしました。
塾のアルバイトは要件から外れてしまうのですが、年度末までは雇ってもらえることになりました。コールセンターの仕事は社員にしてもらえることになり、管理も任せてもらえることになりました。(10代にそれを任せるほどに、クレームが多く、人がやめていくセンターでした。笑)
都内のセンターだったのですが、静岡から通う交通費まで出してくれることになりました。
私はこの決断をするときに、ネガティブな感情はありませんでした。
むしろ、これまでは選択肢がない中だったのに、自分自身で考えて身の振り方を決められたプロセスに満足していました。大学はまた、行きたいと思えば行けるし、とも思いました。
ただ『親の事情で子どもが夢や希望を制限される社会ってやっぱりおかしいよな』という思いは強くなり、いつか何かやりたいな、と思いました。
■活動歴の詳細
□2007年~2012年
そうして大学を中退した後、コールセンターの仕事でお金を貯めて、2009年に学習支援塾を立ち上げました。家庭の中でしんどいなと思う子たちの心身の居場所になりたいなと思いました。借りたマンションの1室が空いていたので、無理なくそこからのスタート。塾の仕事で生活をするつもりはなかったので、昼はコールセンター、夜は塾、という毎日になりました。
1:1の関係性づくりを大事にしたくて、個別指導は1:1、1時間1,000円。集団授業は1時間500円。低価格にして課題を抱える家庭が来やすくしつつも、「誰でも来られる塾」にしました。収入による授業料の差も設けませんでした。「見えない困りごとを抱える子ども」にもアクセスしたかったし、この塾に来るのを誰かに見られたときに「あそこに通っているってことは可哀想な子」というような偏見を子どもが受けないようにするためでもありました。
19歳で学習支援塾を立ち上げたということもあって、まあまあ珍しかったのか地元のメディアなどにとりあげていただくこともあり、多くの子どもたちに出会えたことはとても嬉しかったです。
夢に描いていた学校の先生にはなれなかったけれど、「先生」と呼ばれるようにもなり、前向きに過ごせていたとき、当時流行っていたmixiで(思えばあの頃からお世話になっている。笑)、『親の離婚を経験した子ども』というコミュニティを発見しました。5,000人くらいの方が登録されていました。
「親を殺したい」「なんでうちの家はこんなに変なんだ」という否定の言葉が並ぶことに共感の気持ちと悲しみの気持ちとがありつつ、私もこれまでのことや現状を書き込みました。
すると、シングルマザー支援をしていたNPO法人Wink(当時:千葉県柏市)の代表の娘さんからmixi上で連絡があり「親の離婚を経験した子どもたちの支援をしたいが、いっしょにやらないか?」とお誘いを受けました。
あの頃は今よりも「インターネットで繋がった人と安易に会わない」が言われていたような気がするのですが、『会いたい!』と即決し、静岡と千葉の間(?)の新百合ヶ丘で会うことになりました。
そして意気投合した私たちは、2010年にはNPO法人Winkの理事として、一緒に活動をはじめました。親の離婚を経験した子どもの前向きなコミュニティづくりや、相談支援、面会交流支援などもおこなうようになりました。
自分が講演をしたり、執筆したりするなんて思ってもみなかったのですが、そういう機会はとても貴重で、良い経験になりました。
□2013~2015年
この頃、やや持病が悪化し、病院に通わなければならない機会が増えました。塾の方では雇用していたスタッフの対応がなかなか大変で、しんどい期間でもありました。同時期に関東の仕事は増えてきていました。ちょうど千葉に良いお医者さんが見つかり、仕事のついでに通院する、ということもやっていました。
そして仕事を整理しながら、一緒に活動していた仲間が出産で活動を離れることになったタイミングで千葉へ拠点を移すことにしました。
生業のコールセンターも自宅の近くのセンターに切り替えて、新しい生活をスタートさせました。
あたらしいセンターでは立ち上げの管理職だったのですが(立ち上げにかかわるのは2か所目)、小さいところだったので心にゆとりをもって働くことができました。
支援の活動の方は仲間が離れたこともあって『ひとりではこの活動は続けていけないな』と感じ、今あるケースはしっかり対応して、徐々に辞める方向に進めて行っていました。
ただ、2015年の夏に「ひとり親家庭の子どもふれあいキャンプ」を兵庫県明石市の委託を受けておこなうことが決まっていました。大きなイベントとしてはそれが最後かなと思いつつ、素敵な企画であることは自負していたので、ボランティアさんたちとやり遂げようと思いました。
職場には休み希望を出していたので「それどういうやつなの?」ということになり、いろいろと説明をしたところ私の活動に理解を示してくれたので、職場の中でも私の活動について話す機会が増えました。
そのとき上司だったのが今のウィーズの事務局長なのですが、ご自身に離婚の経験があるということで「養育費は?」「面会交流は?」「離婚のときどうやって話し合いしたの?」と根掘り葉掘り聞いて、勉強もさせてもらいました(仮にも上司に向かって何を聞いてるねんと言う話ですが、赦してくれてありがとうございました。笑)
職場の仲間に「活動は辞めようと思っている」ということを伝えたときに、「ひとりでできないならみんなでやればいいんじゃない!?」という話になり、3人の同僚が一緒に活動に取り組んでくれることになりました。
□2016年~2018年
そして、私たちはウィーズを立ち上げることになりました。子ども視点で子どもの支援をするということをモットーとして相談支援・学習支援・面会交流支援を最初の事業として活動を始めました。これらの事業はすべて、第三者である私たちが子どもと繋がるためのツールでもあります。
「子どもの健全な自立」を目指して活動していることは設立時から変わりません。
ただ、これまでの活動歴から『シングルマザー支援団体の光本さん』と言われることも多かったので、「子ども視点で子ども支援」を内外からブレない軸を固めていくために、初代の理事長は私ではなくいまの事務局長に努めてもらったり、ひとつひとつの言葉をよくよく「子どもから見たらどうか?」と吟味したり、さまざまな工夫をしながら地盤固めをする期間でした。
私がシングルマザー支援の団体に所属をしていたことや、面会交流支援をしていたこと、私が親の離婚の当事者であることなどから、ウィーズも「親の別居や離婚を経験した子ども」の支援団体であるというふうに、とりわけ見えていた期間でもあるかなと思います。
しかし、子どもたちに向き合えば向き合うほど、「親の別居や離婚を経験した子ども」だけではない、ということを日々実感するのです。
別居や離婚をしていないけれど、両親が毎日ケンカしている子どもたち。
虐待を受けている子どもたち。
ひとりの人間として尊重されず、家族に振り回される子どもたち。
すべての「家庭環境にしんどさを抱える子ども」たちが、自尊心を保てず、生きる意味を見失ったり、自分の存在を自分自身で認められなかったりしていました。
さらに、親の別居や離婚を経験している子どもたちの「親」たちの話を聞くと、彼らもまた、子どもの頃にアイデンティティ・クライシスを経験したひとりであることも、往々にしてありました。
私はより多くの子どもたちの力になりたい、子どもたちの声に耳を傾けていきたいと思うようになりました。親御さんたち対してもまた「親もかつての子ども」という視点をもって、対応したいと思いました。
この頃、私は自分の父に対しても、子どもの頃について質問をしました。
父のお父さんから父のお母さんへの暴力があったこと。お母さんが末っ子を妊娠しているときに醤油の瓶でお父さんがお母さんを殴り、その出血を拭いて掃除したこと。その2週間後、妹が生まれたことと引き換えにお母さんが亡くなったことを知りました。父が小学生の頃だったようです。
父のお父さんはその後、父の妹と近親相姦があり、2人の間に子どもが生まれています。もはや血を引く私でも理解不能です。
それでも父は長男なので、お父さんの介護や葬儀までしっかりやって見送ったようです。父は「でもオヤジは頭はよかった。本をたくさん読んでいて、いろんなことを教えてくれた」と自分のお父さんの良いところも話していました。
うちの父はもう70歳を超えています。
それでも明らかに、当時のことを話すときに切ない顔をします。
本当に親子関係って難しいよなと思います。
どんな親でも親は親。
自分のルーツであり、その人がいなければ自分の存在はないのです。
だからこそ、子どもは苦しいし、ずっと根深くその傷を抱え続けるのです。
□2019年
ウィーズとしての理念や、目指すべきところ、担うべきところが明確になってきた創業期を経て、事業の転換に着手したのがこの時期です。
また「早く解散したい」という思いが強くなったのも、この時期かもしれません。私たちが目指すべきところは、家庭が安住の地でなく、苦しむ子どもたちがいなくなること。ウィーズが発展するというのは喜ばしいことではないのです。
だからこそ、もっと子どもたちにコミットしていくために、子どもたちが使いやすいツールであるLINE相談をはじめました。
そして、それまで有償にしていた毎回の面会交流時に発生する面会交流支援の支援料を無料にしました。
その思いはウィーズの面会交流支援のページに記載しています。
この転換をおこなったこの年、右肩上がりに支援件数が増えていきました。
LINE相談も月を追うごとに、100件、200件と重なっていき、子どもたちのニーズを感じていたところ、突然にコロナ禍がやってきました。
子どもたちも家以外の場所で過ごす時間が突如無くなり、これまで家庭が居場所と感じられなかった子どもたちはもちろん、そうでもなかった子どもたちが家庭のしんどい部分に触れる機会が増えてしまって居場所と感じられなくなる・・・・というケースもありました。
□2020年~2022年
2020年に入り、3月2日に一斉休校がおこなわれたころからは、LINE相談が毎日驚くほどのスピードで増え続けました。幸い当時は大人たちも仕事がお休みになる人が多かったので、ボランティアさん増員の呼びかけに応じてくださったみなさんの力を借りて何とか対応しました。
2020年3月は3,000件/月、ピークの8月には8,000件/月の相談が寄せられました。いたずらや対象外のものを除いて、すべてにお返事を書きました。
しかし、さすがにこれだけの件数になってくると丁寧に寄り添うことが難しくなってくると感じたため、広告表示を減らすなどして流入の調整をしました。2,000件~2,500件/月くらいの相談をそれ以降は受けられるようにしています。
緊急的なケースも多くあり、夜中に子どもの元にかけつけることも何度もありました。
あるとき、家に帰るのが難しいという子どもから夜中に相談を受け、うちのスタッフが迎えに行って一緒に交番に行ったことがあったのですが、おまわりさんから『ウィーズさんはこういう子が泊まれる場所はないの!?』と言われました。
そうか、もう民間に頼らないとどうにもならない感じなのか・・・と愕然としたのですが、そういっていても始まらないので、一旦安心安全におうちから離れられる場所をつくらないといけないと感じ、戸建てを借りることにしました。
最初は名前はなかったのですが、プロボノのコピーライターさんに命名していただき生まれたのが『みちくさハウス』です。
みちくさハウスは地域の支援団体さん、スクールソーシャルワーカーさん、学校の先生、行政の方などからリファーを受け、それぞれの子どもたちの状況に合わせて利用してもらっています。
ごきょうだいでお越しになったり、親子でお越しになったりするケースもあります。
オンラインでのリーチでスタートし、リアルな伴走に繋いでいく拠点になっています。
急速な時代の変化に対応を迫られてきた時期でしたが、年々多くの方にご支援いただいたり、養成講座に参加していただいたりしながら、関わってくださるすべての方々の力あって、歩むことができました。
□2023年~
ここから先は、このnoteの記事の中で詳しく書いてきた通りです。
ここまで書いてみて改めて思うのは、私はとても運が良いということです。
親は離婚したけれど、人生にとってプラスになるたくさんの出会いや、いいタイミングでもたらされる機会に支えられ、幾度となく救われてきました。
子どもたちには、運まかせではなく、たくさんの出会いやたくさんの機会に恵まれてほしいと願っています。それぞれに必ず根を張り光に向かって伸びてゆける場所があるので、あきらめないでほしい、絶望しないでほしいと思っています。
■よく聞かれること・その他
□自らの経験の発信について
時が令和になったのを機に、30歳も越えたし、ということで『親の離婚を経験した子どもです』という発信はできるかぎり辞めました。
自分のプライベートも基本的には発信しないようにしていたので上記にはあえて詳しく書かなかったのですが、結婚とか出産とかもそれまでにいろいろ経験させてもらいまして、今は【「かつての子ども」であり「支援に携わる者」】としての視点を意図的に持つようにしています。「家庭環境」「親子関係」って、誰もが常に何かしらの当事者ですよね。この活動は、そのすべてが誰かの力になることがあると思っています。だから、その時感じるものを大事にしたいなと考えています。
基本、プライベートはよくわからない人だと思いますが、支援現場でプライベートをあまり出さないようにというのも意識しています。
子どもたちっていろんなところ見てるんです。『あー、この人指輪してる。』『あー、この人自分の家族の話ばっかりしてる。』と感じたときに「幸せな人にはわからないよね」とシャットダウンされてしまうことがあります。家庭環境や親子関係にしんどさがあると尚更です。
これ、関わり初期の頃には結構マイナスになるんです。最近は私が現場の最前線に出る機会もだいぶ減りましたが、余計なマイナスをつくる必要はないので、その子と1:1の関わりが始まったばかりの頃は気を付けています。関係性ができてくるとタイミングを見極めて自己開示していくことは必要だな、とも感じています。
というわけで、子どもの時のことも大人になってからのことも基本的には直接聞かれれば答えていますが、積極的にオープンにしていないのはそんな思いがあってのことです<m(__)m>
□両親の離婚後親権制度について
こちらはよくお問い合わせや取材依頼があるのですが、ウィーズのホームページに掲載してありますのでお読みいただけたら幸いです。
□すきなもの・きらいなもの
・もやしのナムルと白米が好きです。ネバネバ系のものはあまり好きではありません。
・アウトドアよりインドア派ですが、旅は好きです。
・雨の日はわりと好きですが、雨+風の日はテンションがやや下がります。
・自転車が好きです。車の運転はあまり向いていないようです。
□とくいなこと・にがてなことなど
・パラレル作業は得意な方だと思います。逆に1個のことに絞って淡々とやることができません。
・すぐ忘れるのでメモを書きますが、そのメモをどこかにやってしまいます。
・やりたいと言ったことをやります。食べたいと言ったものを食べます。やるまで&食べるまで言い続けます。
・突然大きい音が鳴ったり、突然大声が聞こえたりすると思考が停止します。
・タッチタイピングができます。フリック入力は苦手です。いずれも打ち間違いには気づかないことが多いです。
■取材依頼・お問い合わせ
ウィーズのHPより、ご連絡をお願いいたします。
お問い合わせのカテゴリは「その他」をお選びください。
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