オレさんですか?
三十年くらい前だろうか。
当時、私は社会人三年目か四年目くらいで、職場の近くで一人暮らしをしていた。
或る夜。
電話がなって出てみると
「オレやけど」
という。
オレ?
「オレ」と言って電話をかけてくるような男性に心当たりがない。父親かと思いもしたが、父親の一人称は「ワシ」だった。日本語の一人称の多さが有り難く思うという珍しい状況だ。
まるで思い当たらない私は極めて丁寧にたずねた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」と。
しかし。
電話の向こうでは相変わらず「オレ、オレ」としか言わない。
余程親しい人を私は忘れてしまっているのだろうか。少し不安になってきた。会社の先輩、同僚、学生時代の同窓生。相手の声は私の記憶を微塵も刺激しない。仕方がないので今度は詫びた。
「申し訳ありません、どなたでしょうか。どうしても思い至らないのですが。」
それでもなお、相手は「オレ、オレ」としか言わないのである。
私は天井を仰いでなおも記憶をたどる。
その時である。
きっと私の頭の上には電球が光っていたことだろう。
そうか!と思った私ははずんだ声でこうたずねた。
「オレさんですか?」
同時に電話は切れた。
あれは特殊詐欺のはしりだったのだろうか。
頓珍漢な私の受け答えに相手も痺れを切らしたのかもしれない。
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