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日独伊三国同盟 - 防衛研究所

先だって『太平洋戦争への道』を読んでいて「三国同盟」を検索した時に、次のようなものを見つけた。

日独伊三国同盟 - 防衛研究所
https://www.nids.mod.go.jp/event/proceedings/forum/pdf/2016/03.pdf

そうか。防衛研究所はこういうようなものも研究しているのか。それはともかく。内容は興味深い。

だらだらとまとまりはないが、書き連ねてみることにする。


1938年夏 第一次三国同盟交渉開始

ドイツ、すなわちヒトラーは対英のみならず対米も含めた同盟を想定していたらしい。であればこその日本というわけだ。日本は太平洋を挟んでアメリカと対峙している。ドイツがイギリスを攻めるにあたってアメリカに出てきてもらっては困る。

1939年3月7日、リッベントロップは、ドイツ駐在日本大使大島浩に以下のように述べている。「三国同盟より独伊の日本に期待する所は、何よりも先ず米国を牽制し、彼らをして中立を守らしむることに在り。要するに本協定の主たる目的はさしずめ政治的にして、之だにあらば米国は欧州に関与し来たらず」

防衛研究所『日独伊三国同盟』

リッベントロップとはヒトラー内閣の外相である。日本はそんなドイツの計略にまんまと乗った……と考えるのは早計である。この時点の日本は仮想敵にアメリカを含めていなかった。

これに対し日本側は、仮想敵としてソ連に加えてイギリスを含む余地は残したものの、アメリカ合衆国だけははっきりと対象から除外することで陸海外三省が一致していた。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

のみならず、欧州問題に巻き込まれる危険があると警戒さえもしている。この時点では戦略的理性が働いていたと、本文書でも記載している。


1939年5月22日 二国間軍事同盟

翌年5月。日本がそういう態度であるものだから(三国同盟に踏み切らないものだから)、ドイツはまずイタリアと二国間で軍事同盟を結ぶ。


1939年8月23日 独ソ不可侵条約締結

だが、それでは十分でない。そこでドイツは日独ソ三国の協力関係を考えた。日独伊三国同盟において仮想敵であったソ連と協力関係を結ぶというのである。日本でも「日独伊ソ四国軍事同盟案」なるものを構想していたらしいがそれはともかく、ドイツは1939年8月23日に電撃的に独ソ不可侵条約を締結する。これには日本も衝撃を受けたらしい。


独ソ不可侵条約の締結は第二次世界大戦の引き金となった。日本はこの条約締結に茫然自失状態となり、「防共協定強化交渉」をドイツで推進していた大島浩は更迭された。日独関係は急速に冷却していった。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

このまま冷却していればよかったのかもしれない。が、そうはならなかった。ドイツがフランスに勝利したあたりからおかしくなる。


1940年6月22日 ドイツ対仏戦勝利(休戦協定調印)

翌年。ドイツがフランスに勝利する。

これによりヨーロッパ大陸は、若干の中立国を除き、ほぼドイツの同盟国および準同盟国が支配することとなり、ドイツによる「ヨーロッパ新秩序」の形成が事実上達成されたかに見えたのである。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

このとき日本は何を考えたろう。

第一に、日本はこのドイツの「新秩序」に便乗し、「権力空白」状態のオランダ領東インドおよびフランス領インドシナへ進出しようとする衝動を深めた。

なんだそれは。まるで火事場泥棒である。ドイツがヨーロッパで暴れるものだから、他のヨーロッパ諸国はアジア植民地に手が回らない。その手薄になったアジアへ踏み込もうというのである。更には対独に汲々とするイギリスに対してビルマルートの封鎖も強要した。ビルマルートとは中国への軍事援助のルートであるらしい。イギリスはルート封鎖を余儀なくされる。

このドイツの侵攻に圧倒されたのは日本だけではないようだ。中国の孫科(当時立法院長)も次のように発言した。

現在フランスが降伏し、イギリスも間もなく敗戦する。

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続けてこう言う。イギリスが負ければアメリカは欧州に釘付けにされ極東を見捨てる。今や英米仏は無能、ソ連は親密さに欠ける。今後の外交は親ソ独に加え、さらにイタリアとも友好をはかるべきである、と。なんと。こちらでもソ独伊である。のみならず国際連盟の脱退まで言及している。あの頃のドイツを見れば皆がそう思うのか。日本がドイツのおこぼれにあずかろうとしてもやむを得ないのか。

いやしかし、中ソ独伊の構想を止めたものがある。蔣介石である。

蔣介石はこのような国防最高委員会常務会議の政治的雰囲気に接し、20日、幹部たちを召集して強力な説得工作をおこなった。こうした蔣介石のリーダーシップは功を奏し、さしあたり国民政府内の中独ソ三国連合構想は保留の形となった。

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一方、ドイツはフランスを制したもののイギリスを攻めあぐんでいた。ロンドン空爆作戦、イギリス本土上陸作戦、ジブラルタル攻撃作戦がいずれも失敗に終わる。何故イギリスは和平交渉に応じないのか。ドイツはこう考えた。

ロシアが倒れれば日本がアジアでやりたい放題になり、アメリカは極東に釘付けられて欧州に手を出せなくなる。さすればイギリスは音を上げるであろう。

なんだか風が吹けば桶屋が儲かるみたいであるが、ようするにアメリカの相手を日本に押し付けよう作戦である。ちなみにアメリカに対する見方として太平洋か欧州かという見方をしばしば目にするが、結果的にこの考え方は間違っている。アメリカは太平洋も欧州も、両方に対応できたのだ。おそらくは、それは誰も考えもしなかったことなのだろう。今更ながらにアメリカの力というものに驚かされる。


1940年9月27日 日独伊三国同盟締結

ドイツがフランスに勝ってから3ヶ月。急転直下、日独伊三国同盟が締結される。あれだけ日本が渋っていたのはいったいどこへ行ったのか。

ちなみに、日独伊三国条約の原文はこちらで読むことができる。

第一条は、ドイツ、イタリアが欧州の新秩序建設に指導的地位にあることを、日本は認め尊重するというもの。

第二条はその逆にで、日本が大東亜において新秩序建設に指導的地位にあることを、ドイツ、イタリアが認め尊重するというもの。

第三条は、欧州戦争、日支紛󠄁爭に参入していない国から攻撃されたときは政治的、経済的、軍事的方法で相互に援助すること。

「参入していない国」とは、アメリカ、ソ連か。

第四条には、日独伊の混合専門委員を開催すること。

第五条は、ソ連との関係に影響しないこと。
これは既にドイツがソ連と不可侵条約を結んでいるのでそのことを指すのだろう。

そして、第六条は有効期間についてであり、署名さしてから十年間とある。

実に簡単な短い文章である。


1940年11月13日 日独伊ソ四国同盟構想

ドイツは再び日独伊ソの四国同盟を目論んだ。これにスターリンも乗り気になる。スターリンの片腕とも言われるモトロフがベルリンに行きヒトラーおよびリッベントロップと会談した。この時、ドイツが示した「四国協商」案がすごい。

秘密議定書では「領土的要求の重点」として、ドイツには中央アフリカを、イタリアには北アフリカおよび北東アフリカを、日本には日本本土および満洲国以南の地域を、ソ連にはインド洋方面を分け与えるという勢力圏分割が規定されていた。この構想は「破産したイギリスの総財産」を日独伊ソの四国で山分けしようというもので、極めて反英的な色彩の濃い構想であった。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

まあ、なんとも。いいように領土分配だけは構想されていたわけで。

一方で、日独伊ソの四国同盟に中国も含めるという可能性も示唆していたという。と言っても中国に想定していたのは傀儡政権である。しかし、ここでも蔣介石はなびかなかった。このときの蔣介石の判断に関する記述は興味深い。

第一に、蔣介石は、三国同盟がわずか3週間ほどで調印に至ったことについて、「盲目的な少壮軍人の主張」に引きずられ、日本の外交政策の実施が「慌ただしく、でたらめ」であると見ていた。第二に、蔣介石によれば、三国同盟は、結果的にアメリカ合衆国の対日封じ込め政策を強化するだろうと考えられ、また、その意味で、三国同盟成立は中国にとって有利であるとされた。蔣介石は「三国同盟の締結はまさに中国の最終勝利への転機であり、同時に日本の失敗への最大の鍵である」と位置づけたのである。第三に、蔣介石によれば、三国同盟は「明らかにわが国を誘ってその策略に加入させる」ことを狙っており、中国に「適当の地位」を与えるとしているが、これは「倭寇の唯一の夢想」であると考えられた。蔣介石は、日独による国民政府の「ヴィシー化」戦略を見抜いていた。第四に、しかしながら、蔣介石によれば、ドイツの仲介提案に対し反対の態度を取る必要はないという。なぜならそれにより、英米ソ三国に対し、中国を「以前のように軽く扱う」ことをさせないためである。蔣介石は、三国同盟側の日中仲介案を逆手にとって、英米ソ三国に中国の国際的地位の拡大を認めさせようとしたのである。10月31日、蔣介石は日記に「日中講和は下策である」と記した。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

「ヴィシー化」のヴィシーとは、フランスのヴィシー政権を指すが、これはドイツの傀儡政権と言われている。「ヴィシー化」とはすなわち「傀儡政権とする」ことを意味する。蔣介石はそれを見抜いていたということだ。

話をソ連に戻すと、先の「イギリス財産山分け構想」を持ち帰ったものの、ソ連はさらなる要求を突きつけた。

(1)フィンランドからのドイツ軍の撤退
(2)ブルガリアおよびボスポラス・ダーダネルス両海峡におけるソ連の安全保障の確保
(3)バツーム・バクーからペルシャ湾までの地域に対するソ連の要求の承認
(4)北樺太における日本の石炭・石油利権の放棄

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これにヒトラーは激怒したと言われている。どれが琴線に触れたのかはわからない。(1)か。(4)は日本が激怒しそうだが、ヒトラーが激怒するだろうか。11月13日にドイツが提案してから13日後の11月26日のことである。ソ連を含めた同盟はあっという間に破綻した。

一方、日本はというと、独ソを仲介とした日中の和平交渉を模索する。

11月13日、大橋忠一外務次官がオットと会談し、(1)ソ連に影響力を行使して日ソ不可侵条約を受け入れさせて欲しい、(2)ソ連に影響力を行使して蔣介石政権支援を断念させて欲しい、(3)蔣介石に影響力を行使して日本との和平締結に導いて欲しい、との要請をおこなった。

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オットとは、東京駐在ドイツ大使である。独→ソ→中のルートによる日中和平である。11月13日の頃はまだいい。その頃はドイツも中国大使を呼びつけるなど、多少は動いてくれたようである。「日中関係の調整に配慮するのはロシアとドイツの任務」とまで言った。だが、それも長くは続かない。


1940年12月18日 総統司令第21号 バルバロッサ計画

「総統司令」の「総統」とはヒトラーのことである。先のソ連の4条件に激怒したヒトラーが、そこからさらにやり取りを重ねるということはないのだろう。そしてまたヒトラーをなだめすかすことができる者もいないのだろう。バルバロッサ計画とは独ソ戦である。激怒=交渉なし=戦争である。決断が速いというか、速すぎるというか、短絡的すぎるというか。しかし、独ソ戦を目論んでいることが日本に知らされることはなかった。ヒトラーにとって、ソ連戦は「ゲルマン民族支配下の東方帝国の建設」のためであり、「人種的絶滅戦争」であり、ゲルマン民族だけで勝利せねばならない聖戦だったためである。

知らない日本はなおも独→ソ→中の和平を望むが、もはやドイツがそれに呼応することはない。ソ連も中国も関係ない。ひたすらシンガポールを攻撃するように日本に進める。ドイツの仲介なくしてソ連と手を組めるのか。それでもモスクワに向かったのは松岡洋右である。また貴方か。そしてなんと、スターリンと直接会談する。

モロトフとの会談は北樺太の利権問題で暗礁に乗り上げたが、交渉の最後にスターリン自身が松岡との会談に参加し、若干の文言上の妥協を加えたのち、4月13日、急転直下、日ソ中立条約が締結されたのである。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

松岡洋右のことだ。意気揚々と帰国したのではなかろうか。


1941年6月22日 独ソ戦勃発

1941年6月22日というと日ソ中立条約の2ヶ月後であり、1939年8月23日の独ソ不可侵条約から2年も経たない。あまりにも慌ただしかろう。

近衛文麿の言葉を借りれば、ドイツの「第一回の裏切り行為」(独ソ不可侵条約の締結)に続く「第二回の裏切り行為」であり、日本の官民が受けた政治的衝撃は甚大であった。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

この辺りから、なんだかよくわからなくなる。防衛研究所『日独伊三国同盟』を読んでいても、今一つよくわからないのだ。一つ一つ考えてみる。

第一に、独ソ戦争の勃発により、日独伊にソ連を加えた四国の連携による対米抑止戦略が崩壊した。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

これはなんとなくわかる。アメリカという大国に対峙するには、ソ連という大国と組まねばならないと、そういうことなのだろう。ドイツがソ連と戦争を始めたため、日独伊三国同盟にソ連を加えることは不可能となった。ソ連と組むことがいいか悪いかは横に置いたとして、アメリカはやはり強国であって日独伊三国では不十分という感覚はわからないではない。

第二に、独ソ戦争の勃発によりドイツの軍事力の重点が対ソ戦線に傾注されたため、ドイツの対米抑止力は著しく減退した。日独伊三国同盟は、対米抑止戦略としてはほぼ無価値となった。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

これもなんとなくわかる。日独伊三国同盟には、「欧州戦争、日支紛󠄁爭に参入していない国から攻撃されたときは政治的、経済的、軍事的方法で相互に援助すること」なる条文がある。「参入していない国」とは暗に、アメリカ、ソ連かと思われる。アメリカ、もしくはソ連の方から攻撃されたのならまだしも、ドイツ自らがソ連と戦争を始めたのである。この上、同時にアメリカと相対することはできまい。となるとアメリカに対しては抑止力は働かないことなる。

続けてみる。

日本には、かつての「平沼メッセージ」のように、三国同盟を死文化し、ヨーロッパ情勢から手を引いて対米交渉に集中できる環境が期せずして成立した。軍事的抑止から外交的交渉への転換のチャンスが訪れたのである。

防衛研究所『日独伊三国同盟』

「平沼メッセージ」とは、日本が日独伊三国同盟に二の足を踏んでいたころに、時の内閣総理大臣である平沼騏一郎が交渉に幕をひくために送ったメッセージである。曰く「(帝国は)協約に依り独伊に武力援助を与うるを原則とするも、諸般の情勢に依り現在及び近き将来に於いて有効なる武力援助を得ざる実情に在り」と。「かつての「平沼メッセージ」のように、三国同盟を死文化し……云々」とはすなわち、ドイツが突如としてソ連戦を始めた以上日独伊三国同盟は頼みにならず、対米政策を軍事的抑止から外交的交渉へ転換すべきであったと、防衛研究所の文書はそう言っている。

さらに続ける。

しかしながら、日本政府は、2年前とは異なり、このチャンスを生かすことができなかった。

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だが、日本政府はそうできなかった。『2年前とは異なり』とあるが、どのように違ったろうか。一つは人が違うということがあるのだろう。内閣総理大臣は平沼騏一郎から次のように変わっている。

第35代 平沼 騏一郎 
 昭和14年1月5日~昭和14年8月30日

第36代 阿部 信行
 昭和14年8月30日~昭和15年1月16日

第37代 米内 光政
 昭和15年1月16日~昭和15年7月22日

第38代 近衛 文麿
 昭和15年7月22日~昭和16年7月18日★

第39代 近衞 文麿
 昭和16年7月18日~昭和16年10月18日

第40代 東條 英機
 昭和16年10月18日~昭和19年7月22日

けっこう、バタバタと変わっている。独ソ戦勃発時は★印の近衛政権の時にあった。近衛文麿という人にもなんとなくいいイメージが、ない。そういう私の単なる印象はともかく、この時日本政府は南進論(資源問題解決)と、北進論(ソ連を挟み撃ち)でもめる。近衛文麿が南進、松岡洋右が北進であったらしい。松岡洋右は自らスターリンとの条約を勝ち取ってきたのだから南進かと思ったが(俺がソ連と約束してきたのだから北は大丈夫、南へ行こう!的な)、違ったのか。どちらにしても、アメリカとの政治的解決にはならなかったわけで。

あとは何が変わっていたろう。できれば変わっていたことが何かも書いていてほしかった。

とにかくも、その後日本政府は南進論を取り、アメリカは石油輸出全面禁止で応じる。真珠湾攻撃へと突き進む。何を考えて南進を決定したのか。

独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに努む

防衛研究所『日独伊三国同盟』

他国も考えたようにフランスに続きイギリスもドイツに負けると見たようだ。そして、アメリカの戦意喪失。仮にイギリスが負けてもそうなったかどうか。アメリカに対する計算はどこの国も間違っていたようだから、あながち日本政府の目算が甘いとも言い切れないかもしれないが。だが、アメリカが極東と欧州の両方に対応できまいという考え方はまだしも、イギリスが負けて戦意喪失というのはどうだろう。案外に逆の可能性もありはしないか。

独『ソ』両国の意嚮に依りては両国を媾和せしめ『ソ』を枢軸側に引き入れ、他方日『ソ』関係を調整しつつ場合に依りては『ソ』連の印度『イラン』方面進出を助長することを考慮す

防衛研究所『日独伊三国同盟』

独ソ講和、ソ連との同盟、日ソ関係の調整、ソ連のイラン方面進出の助長。最初の独ソ講和さえも難題のように思える。そもそも、独ソ戦は全く日本に知らされていなかったわけである。その独が日本の声を聞くのだろうか。ああ、そうか。知らされてさえイないのだから、それさえもわからないか。

南進はアメリカの石油輸出禁止を招き、後は真珠湾へ進むのみである。


おわりに

太平洋戦争が勃発する1941年から遡ること5年。1939年に、ドイツ国防省は次のように見ていたようだ。

日ソ戦争が勃発しても、ヨーロッパにおけるソ連の権力政治上の立場に決定的な影響を与えるとは決して考えられない。むしろ日ソ戦争は、ヨーロッパにおける日本の同盟国をイギリスおよびアメリカとの重大な紛争に巻き込むであろう

防衛研究所『日独伊三国同盟』

そのドイツ国防省もヒトラーに対する発言権を失っていった。ヒトラーというたった一人の人間によってドイツという国が大きく変わっていった。

日本も明治維新より大きく国が動き、太平洋戦争に突き進んでいったように見える。維新以降、この国は何を目指し何をしようとしていたのか。常々それが疑問であって、未だによくわからない。ただただ欧米に追いつけ追い越せということだけが目標だったのだろうか。だがそれだけでは大きな展望にはならない。

明治から太平洋戦争の頃とは異なり、今は民主主義の時代である。民主主義の時代のはずだ。私たちの選んだ政治家がこの国の未来を決めていく。

私たち民衆も犠牲者だったのだというような言い訳はもう通用しない。

戦わない選択肢がある。
そのことは決して忘れてはいけない。


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