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芸能 | noh play in多久

能楽×現代美術

佐賀県多久市の市政施工70周年特別記念事業の一環で、2月10日にあった"noh play"。"noh play"は、現代美術家のヤマガミユキヒロさんが多久聖廟を描き、投影した映像の前で能を演じる作品。能は、高校生の時に情操教育として能楽堂へ観に行く機会があったものの、厳かな雰囲気と伝統芸能だ〜という認識のみを受け取った後、ほぼ寝ちゃったような。大人になったから眠くならずに観れるかも?と良い機会だから観に行ってみました。

記念事業だから、ね。

第一部と第二部は、市長の話とヤマガミさんのお話。大人の話が長すぎて、隣で寝ちゃう息子。分からないと、確かに眠くなるよなあ。さあ、果たして能は観れるのか。

絵と映像が溶け合うアート

ヤマガミさんは、東京駅の復原工事完成記念展での作品が有名なんだそうです。鉛筆絵画に同一視点からの映像を合わせた「キャンバスプロジェクション」という手法で作品を制作されていて、お話の中でいくつか作品を見せていただけました。常にそこにあるもの(=変わらないもの)を描いて、風景(=変わるもの)はプロジェクターの映像に描いてもらう、というのは、私のお仕事(毎日繰り返す変わらない仕事はシステムが、変わる仕事を人間が)とは逆だなあと思ったり。

目に見えないもの

無事に最後まで観ることができましたが、前半はゆったりとした動きや単調な音にやはり眠くなりました。眠くなりつつも、そのゆったりとした動きがどれだけ研鑽を積んだものなのかに思いを馳せられる、とか、単調な音を1時間近くズレたり外したりすることなく人間が奏で続けられる凄さを感じられる、ぐらいには大人になっていたことを確認できて良かったです。
ヤマガミさんが話されたことの中に、「ラジオのチューニングのように、昔の人は見えない存在を見ることができたのかも」というのがあって、意図された演出だと思いますが"noh play"の中でも同じような感覚がありました。アハ体験のような心地良さよりは、コントロールできない何かに畏怖を感じるような感覚。目の前の能を見ているといつの間にか背景の映像に色が付いていたり色がなくなっていたりすることで、見ているのに見えていないことに気付きます。また、ステージ上のスクリーンの映像に演者が下がって近づくと、演者自身にも映像が投影され、溶けるような瞬間がありました。見ているのか見ていないのか、目の前にあるのは映像なのか現実なのか。「見ることができるのに見ていない」なら「見えないものを見る」こともできるだろうな、と考えさせられました。

まとめ

誰かの作った作品を観て何かを受け取ることはずっと続けていきたいです。能も、自分を知るために機会を作って定期的に観ることにします。

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