「飼う」という言葉

前回書いた
   「動物との関りを考える時に改めて考えるべきこと」と思うこと
を掘り下げて、今回は
   「飼う」という言葉
をつらつらと。


・先に「おことわり」

これから長々と、日本における身近な動物との関係から起こるうる問題の根底にあると私が感じていること書く。
感じている事柄が何であるかについて書くのであって、一般論して、その存在を否定・批判するものではない。否定・批判しても問題が解決できないので、それはしない。
ただ、それに対して私個人がどう感じているかは書かせていただく。

〇先に結論

ここまでを読んでもなんのことやらさっぱり分からないだろうから結論を先に書いておきます。

「飼う」という単語がある。
犬との暮らしの問題をあれこれ考えたとき「基本的に"飼う"と考えているからこうなるんだろうな」と感じたことが多々あった。

この字は「食を司る」と書く。
遠い昔の日本の感覚では「餌を与えているから、お前はこの犬を飼っていることになる」と言われることがあった。日本の歴史の中の長い期間、犬は外で暮らし繋がれていないことが多かった。そのような犬に食べ物を与えているだけで「飼っている」ことになった。
それに加えて「名前をつける」を行えば、確実に「お前が飼っている犬」とされた。
この様な感覚が日本にはあった。

生きるための最低限の世話をするが、それ以上(以外)のことは犬自由に任せる、させてあげる。自由行動中の行為について、飼い主(食べ物を与えている人)は「飼い主の責任ではない」といい、迷惑を被る人は「飼い主の責任だと」という。
2000年くらいまでは、この様な場面はよくあった。今でも同様の場面はあるが、法律他諸々の社会のルールがあり「飼い主の責任です」と決着することが知られてきた。
また、食べ物を与えていても飼い主としての責任を無限に追及されない地域猫などの活動も広く知られてきている。

(少々違いますが参考になる相談記事をみたので追記します 2023.07.23)
野良猫に餌をあげている人がいて、その猫が相談者の庭を荒らした場合、餌をあげている人に損害賠償できるか?、という相談。基本的には、餌をあげている人にその猫の行動に責任があると考えているようです。
※地域猫という言葉は法律などで定義されていませんが、文字通り地域に根差して活動されている方々は、地域に迷惑をかけないように対策することも「お世話」の範囲に入っていると認識し活動しています。
(2023.07.23追記ここまで)

これから長々と書くことは、私が「飼う」という単語が気になり始めた時のことと、「飼う」以外の感覚の存在について書いてゆく。

〇 犬との暮らしを教えてもらう

・犬を迎えることになる

私は子供の頃、犬や猫と暮らしていない。
初めてそれらと同じ屋根の下で暮らしたのは二十歳の頃、昭和も終わりの頃だった。住み込みで働いていた場所であり、犬猫以外にも動物はいた。
山の麓で標高は約千メートル。気候も市街地とは違ったが、地域の常識も違い若い自分は戸惑うこともあった。

自分の犬を迎えたのは、市街地で会社勤めをした後。もう平成になり、バブルが終わって数年が経っていた。
当時は大型犬ブームであったが、ハスキーブームも終わり、ゴールデン・ブームも落ち着いた頃だった。
会社勤めをした後ってどういう意味?、と不思議におもった方もいるとおもいます。そのことは後述。

迎えた犬はゴールデン・レトリバー(以後、ゴールデン)。ブームにのったのではない。女房が子供の頃から一度は一緒に暮らしてみたいと思っていたと常々口にしていた。

ちなみに女房との出会いは、その職場でのことだった。
山の麓の職場には、動物が好きな人がよく来ることがあった。その中に女房もいたし、昔からのゴールデンのブリーダーもいた。しかし女房はその人がゴールデンのブリーダーであることに気付かなかった。

それから数年後、私たちは結婚することになる。結婚式はその職場で挙げることになり、皆が協力してくれた。そのブリーダーも。そしてその人がゴールデンのブリーダーであることが女房に知れる。

当然「ゴールデンほしい!」となる。
単純に子供の頃の夢を(女房なりに勉強はしてきたが今から考えると)安易に実現しようとしただけだった。
大人になり、大きなプリンを作り一気に食べてみようと決心し、材料を買い出しに出かける決意をするのと変わらない程度だったのかも知れない。

・具体的な話

子供の頃の夢をかなえようとする女房。知り合いであるブリーダーから犬を譲ってもらえばスタート出来る。そこまで来たと思っていた。

しかしブリーダーというものは相手をみる。知り合いであっても譲った犬が幸せになれないと思えば譲らない。(「ブリーダー」は技術・知識・経験・矜持をもった人であり、私は日本に於いて犬や猫の繁殖にて収入を得ている人の多くはそうではないと思っている。)
我が家(特に女房)の熱意は伝わった。ブリーダーも「本当にゴールデンでいいのか?」を確認したりする。なので他の犬種についても勉強させてもらったし、その犬種のブリーダーも紹介してもらった。
半年くらいのやり取りがあり、ゴールデンを譲っていただけることになり、具体的な話に入っていった。

ブリーダーとは自分が譲った犬が幸せになって欲しい願い、そのための労力を惜しまない。その熱意にこちらも応えねばとなってゆく。
仔犬時代の付き合い方は非常に重要であることを知る。その後のことも教えていただく。
その過程で「あれ?、一般的な"犬を飼う"イメージとは違う」と気付く。

今(2023年)では、仔犬時代のある程度の時期を社会化期と呼ばれることをご存知の方も多いですが、当時は一部の人しか知らないし、犬にそこまで考える風潮はありませんでした。

1990年台前半は、まだ東京23区内でも大型純血種を外で繋いで飼っている家をたまに見かけた。東京や埼玉の猛暑がニュースで常々伝えられるようになったのは、ちょうど1994年。そのようなこともあり、その後23区内では外飼いの大型純血種を見なくなってゆく。

今迄犬と暮らしてこなかった私にとっては、大型犬と家の中で暮らすことが当たり前のブリーダーやその仲間、それらブリーダーから犬を譲っていただいた人たちの話は異世界に感じた。
しかし、今まで経験がないことで「自分が知らないだけで、これだけ多くの人が当然のこととして話をするのだから、それは普通なのかも」と思うこともできた(若かりし時に住み込みで働いた職場では、夜になると家の中に超大型犬を入れることもあった)。
なので「家の中に入れればいいんでしょ?」くらいに思っていたが、注意しなければならないことが沢山あることを教えてもらう。それに対する対応策もあり「こんな世界があったの?、こんなの全然知らなかった」と面倒とおもうよりもワクワクする気付きがあった。

〇「飼う」に対する疑問

・食を司るだけでいいの?

この様に「家に迎えるということは、食べ物を与えるだけではないんだ」と知ることになるが、同時に「多くの日本人は、食べ物与えたり、自由にさせる機会を与えて、犬が満足そうに可愛く見えればそれ以上を求めていないのでは」と疑問に感じはじめた。(なんのことやらと思う人が多いとおもいますが、1994年当時の日本は犬や猫に避妊去勢を行うことは一般的ではなかったことを書いておきます。)
今では犬や猫に「癒される」と表現しますが、当時は何かにつけて「可愛い」と表現していました。

私は「可愛い」そこまででいいのか?、と疑問を持つようになった。

・不適切な例え

適切な例ではないが、分かり易い例えが浮かばないの次のような例えで許してほしい。

人間が誰かと付き合い、友達以上の好意をいだいたとする。
全てこちらが用意して、一緒に美味しいものを食べて、買い物行って、テーマパーク行って、相手が嬉しそうな顔をしたら、それは自分も嬉しいだろう。そのように努力する人もいる。
しかしそこで終わりではないだろう。嬉しそうな顔も見続ければ飽きるかもしれない。そもそもそれは演技かもしれず、それに気付くかもしれない。
そこから先、二人で共に何かを行い、日々共に暮らし、苦楽を共に出来てこそお互いにとって心から失いたくない存在になるものだろう。

「犬にそこまで求めるのは無理だろう」と思う人もいるとおもう。しかし、ブリーダーに犬と暮らすための具体的な話を聞き続けていると、犬は(当時の)私がおもっている以上に人間とコミュニケーションがとれる生き物なのだと気づいてくる。
コミュニケーションつまり、感情のキャッチボールや駆け引きが出来る。だからこそ、犬を迎える前にやらねばならないことなのだと気が付いた。

不適切な例えに戻る。
お付き合いしている相手を自分の部屋にお招きするとことになったら、部屋を片付け掃除をするだろう。模様替えをする人もいるかもしれない。それは何故なのだろうか。
それを改めて考える機会にもなった。

・愛玩動物、伴侶動物

我が家が犬を迎えた(インターネットは普及していない)頃、欧米から陽性強化法トレーニングの情報が入ってくるようになった。私が初めて耳にする言葉が多々あった。その中に「ペットとコンパニオン・アニマル」の説明があり「これだ!」と思った。
残念なことに日本では「コンパニオン」という単語は誤解を招く単語でもあり、なかなか使いにくい。
コンパニオンなる単語を辞書を調べてみると「仲間、友、連れ、伴侶、相手役、(一対の)一方」などと出て来るが「コンパニオン・アニマル」は「伴侶動物」と訳すことになっているらしい。

それに対し、ペットは「愛玩動物」と訳すことになっているらしい。

日本語で「伴侶○○」も「愛玩○○」も「動物」以外ほとんど耳にする機会が私にはない。なのでこれらの言葉について考えるのは難しい。

(私の感覚では)こちらが一方的に与えるだけの関係ではなく、共に行動し刺激し合えるのが伴侶であり、私(人間)側が得ることが多くなるし、犬にとってもそうだろう。少なくとも私の体験からそう感じた。子犬の手のかかる時期でも、手間により失う時間や経済的なもの以上に得られたものを実感していた。

手がかかることは、他人と関わることもある。手を借りることもあれば、迷惑をかけてしまい謝ることもある。問題解決の方法探す過程で同じ苦労している人にも出会う。
それは確かに手間だった。そして犬がいなければしないだろう体験が多々あったが、その体験は犬がいなくても役立つことも多々あった。
これは私の想像に過ぎないが、同じ事を犬も体験しているのではないかと思ったりもする。
結果として犬は家族として行動出来るようになる。さらに家族以外の人間ともある程度コミュニケーションがとれるようになる。
その経験から得たことは、人とコミュニケーションがとれたり、共に行動できる犬を望む人は多い。私たち夫婦にもしものことがあったら、喜んで引き取ってくれるという人が何人、何家族もあった。これはとても重要であり貴重ななことだと実感したものだった。

〇それぞれ

何度も書くが、感覚・考え方は人それぞれでいいと思っている。犬との関係も。
私個人の知識・経験から「飼う」感覚で犬と暮らすことは、時間が経つに連れ、得るものよりも負担が大きくなってゆくのではないかとおもえてならない。
では何故(私から見て伴侶動物ではなく)愛玩動物としての付き合いを選択する人がいるのか考えてみたい。

・専業犬婦(夫)(1990年台)

我が家が犬を迎える時に、ブリーダーから「少なくとも6ヶ月になるまでは誰かが家にいるようにしてくれないなら譲らない」と言われた。人間で言えば専業主婦(夫)のようなものだ。その役目は私が引き受けた。
当時(1990年台)同じように犬のための日常を暮らしている人がいることを(インターネットが普及していない当時)パソコン通信で知る。自分たちのことを「専業犬婦(夫)」と呼んでいた。
こうして私は勤め人をした後、専業犬夫となった。

たまごクラブひよこクラブという雑誌がある。あの雑誌が創刊されたのは1993年。当時の私は「子育ては、自分の親など人間から学ぶもので情報から学べるものではない」と思っていたので、これら雑誌の創刊には驚いた。
ちなみに当時は0~2歳児の保育所での受入れは一般的ななかったと記憶している。なので多くの母親は、二~三年は仕事を中断しなければならない状況になっていた。
その様な時代であったこともあり、私は専業犬夫の存在に疑問をもたなかった。しかしほとんどの人からは理解されなかった。

・選択できる時代(2020年台)

2020年台の今、専業犬夫(婦)になることを検討する人がどれだけいるだろうか。(ペットに優しい世の中になったので、わざわざ)そのような身分になることは(1990年台以上に)奇異の目でみられそうだ。

ペット産業が発展した今、働いていても(預かりサービスがあるので)子犬を迎えることが出来るのではないかと考えるのが当然だし、見守りカメラや自動給餌機などもある。日々、安全を確保し食餌を与えることは出来る。
大きな問題を起こさず出来てしまうかもしれないし、可愛い姿を見ることも出来る。

これはこれで素敵なことだとおもうが、そのような付き合うのであれば、私は「犬である必要があるのか?」と疑問を持ってしまう。
犬は共に行動できる。(欧州においては)昔から何かしらの仕事を人間としてきた。そのように選択繁殖もされ形も変わっていった。
その結果、人間が求める特徴を身につけていった(見た目も行動様式、能力なども)。それは見た目よりも「共に行動できる」そして「共感できる」ことを求めたような気がする。
そのような生き物を飼う(食を司る)ことを中心にした付き合いでは勿体ないとおもえて仕方がない。

今の世の中を見てみると「飼う」感覚で暮らす人たちが増えることで成り立つビジネスが多々ある。ペット産業の多くはそうではないだろうか。なので、そのための情報は溢れるようにネット上はじめ多くの場所で目にする。

それに対し「共に行動する」ための情報は非常に少ない。その基礎的な話になる選択繁殖の話でさえタブー視されることもある。
これが今の日本の現実であると私は感じている。

「飼う」つまり生きていく上で必要とされることを確実に与えることは当然必要です。給餌給水を行わなければ法律(動物の愛護及び管理の法律(令和元年六月改正版)第四十四条)で罰せられる対象になる(我が家が犬を迎えた時はこれはなかった)。

生きていく上で必要とされることを確実に与えることはスタート地点のような気がする。そこから先が、犬との素晴らしい世界なのではと思っている。

〇「飼う」という言葉が嫌いです

長々書きましたが、私が「飼う」以上の関係があってこそ、お互い(人とペットまたはコンパニオン・アニマルと呼ばれる動物)の関係が豊かになると考えています。
「飼う」感覚で「可愛い」を見せてもらい「癒される」だけの関係だと、飽きるのではないか、さらに言えば高齢になり容貌に変化が出て来たり、世話の仕方が変わり(介護になり)、世話の負担が増えてきた時それを素直に受け入れられるのだろうかと思うことがある。

そのように感じてしまう私にとって、昨今耳にする「多頭飼育崩壊」「遺棄」「虐待」などの経緯と「飼う」感覚は関連性があるように思えてならない。

なので「飼う」という言葉が嫌いです。
いきなり、そう言っても理解いただけないだろうから、この書込みで多くの文字数を費やした。それでも伝えきれないことがある。機会があればまた書きたい。

そのように感じている私としては、多くの人が「飼う」「愛玩動物」「伴侶動物」これらの言葉に興味をもっていただき、それらについて考え勉強していただけたらと願うのです。

・何故このようなことを書いたか

この先、noteで書くこと内容の中に「何故、このように考えるの?」と思うことが出て来ると思います。
その様な時にこちらを読んでいただければと願い、書いておきました。


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