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随想的写真生活 「プロローグ」

写真を少々、撮る。
写真歴は?と聞かれると、ちょっと答えるのが難しい。

20年ほど前、イタリアに短期留学した時、親が一眼レフを買ってくれた。フィルム時代のことだ。
この時は、全くカメラ任せのフルオート撮影。
露出も、絞りも、何も知らない。
カメラの性能がいいので、そこそこ撮れてはいたけれど、暗くなっていたり、イメージが違っていたりして、現像されたものを見てがっかりすることもよくあった。

ちゃんと習いたいと思いながら、その後、経済的にも時間的にも余裕がなくなり、10数年の間、カメラを触ることさえ、ほとんどなかった。
そうこうしているうち、世はデジタル時代に。

5年前、初めてデジタル一眼を買い、2年ほど基礎的な講座に通った。おかげで、だいぶイメージに近く撮れるようになってきた。

写真のおもしろいのは、撮る人の視線が表れることだ。
例えば、同じ公園で1時間、自由撮影したとする。
人それぞれ、見つけてくるものが違う。
同じようなものを撮ったとしても、切り取り方が違う。

さらには、全く同じものを同じ構図で撮ったとしても、ニュアンスが違う。
機械が光と影を写し取っているはずなのに、撮影する人の発する波動というか、「気」のようなものが必ず介在するのだ。

自分が世界をどのように見ているのかを示すのが、写真表現なのかもしれない。
それをなぜ示そうとするのか?というのは、さらに深い問いになるのだけれど。

大学時代に自主映画のサークルに所属していたけれど、動画を撮ろうとは思わない。
それは、同じ頃、小説を書いていたものの、全くストーリーテラーでなかったことと関係があるかもしれない。

よくできた物語を読むのも、観るのも、好きだ。
けれど、そういうものは自分には紡げないし、むしろ物語のプロットからすり抜け、こぼれ落ちる、名づけようもないもの、そういう断片を拾いたい。

とはいえ、人は物語を求めるものだし、断片にも物語の残像は宿りうる。
どんな物語を読みとるかは見る人に委ねることとして、私はただ、自分なりに切り取った一葉を、少しの言葉を添えて、差し出そうと思う。

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