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観察のまなざし

”ふぶきのこえ
われをよぶ

とらわれの
われをよぶ


いのちともしき
われをよぶ


けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。”

とらわれの「われ」は観察される客体として存在することに耐え兼ね、血の叫びに従い猿ヶ島から旅立つ。太宰治の「猿ヶ島」は、ロンドン博物館附属動物園から遁走した2匹の日本猿の物語だ。彼らを呼び起こしたのは紛れもなく故郷の血、すなわちアイデンティティである。

一方、映画「サーミの血」はサーミ人の主人公エレ・マリャが故郷もアイデンティティも捨ててスウェーデン人として生きる物語だ。サーミの故郷を離れ姉妹で寄宿学校で生活することになり、差別や抑圧に耐えながら彼女たちの物語は進んでいく。ある日、寄宿学校のサーミ人たちはウプサラからやってきたスウェーデン人の人類学者に身体検査をされることになる。顔の大きさ、鼻の長さ、そして全身の風貌を撮影される。その後、寄宿学校のスウェーデン人からの差別発言に激昂すると押さえつけられ、耳に「マーキング」をつけられる。それは動物と同じ扱いを意味した。

動物と同じ扱いというのは、差別の最たる形だ。アイヌ民族を犬と同等に扱った差別発言のように、黄色人種を猿と揶揄するように、人間の尊厳を著しく奪う行為である。

サーミの伝統衣装を脱ぎ、洋服を身に纏ったエレ・マリャは、スウェーデン人の「クリスティーナ」として生きる道を選択する。妹を捨て、寄宿学校のサーミ人のコミュニティからも疎外され、ダンス場で出会ったニクラスを頼りウプサラに出る。しかし、ニクラスの両親にサーミ人であることを勘付かれ家を追い出されてしまう。金に困り再度ニクラスの家に行くと、人類学専攻と自称するニクラスの友人たちに歓迎される。それは、喜ばしい歓迎ではなかった。彼女たちが期待していたのは、サーミに伝わる伝統民謡。「ヨイクを歌って」。

彼女たちの目線はまさに、2匹の日本猿を襲った「観察のまなざし」そのものであった。好奇心に満ち溢れた学生達の双眸。寄宿学校にやってきた人類学者と同じ、生物学者と同じ、人間を研究対象として調べたがる瞳。彼らは純粋であるが故に厄介である。好意を寄せているつもりで、「調べられている我々」に屈辱を与えていることに全く気づきもしないのである。

中野で行われている「チャランケ祭」に行ったことがある。初めてアイヌの方とお話しできる興奮に包まれていた私は、こうして話を切り出した。「アイヌ民族に興味があるのですが」。一瞬浮かんだ彼の怪訝な表情は忘れられない。アイヌ語を学んでいることや大学に所属していることを伝えると、他のアイヌの人々に案内してくださり、大変ありがたい歓迎を受けることができた。それはしかし、正しい接し方だったのだろうか。私は研究者の顔をしていなかっただろうか。観察のまなざしを彼らに向けなかっただろうか。

アイヌとシサム(和人)が共に生きるにはどうしたらいいだろうか。そんな質問を投げかけると、「人と人として交流する」ことが大切だと教えられた。観察者と被観察者でもない。マジョリティとマイノリティでもない。人間同士の関わり合いをすることが、私がとるべき一番誠実な態度だったのである。

アイヌは「人間」。シサムは「隣人」。これらの言葉は、所属する国や文化背景、ナショナリティを示す言葉ではない。ただ隣に立つ資格のある人間として、観察のまなざしではなく、友愛のしるしとして、シサムの責任として、彼らを知りたいこの気持ちが許されるであろうか。


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