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ケムシ

「ケムシ、やったことある?」

そんなことを聞かれたのは人生で初めてだった。

ケムシ…?やったこと…??

友人は突然何を言っているのだろう、と思いながらも、私の頭の中は静かなる大パニック。ケムシをやった(?)らしき自分のシーンを思い出すべく、これまでの人生を急いで疾走して遡り、絞り出す。

それらしいことをやったといえば。
中学生の頃の体育祭でムカデはやったことはあるが、ケムシじゃない……
はらぺこあおむしごっこをしたこともあったけど、それはあおむしだし……

↑この間、ものの数秒、走馬灯のように過去がよぎる。


いつも好きなものが同じだったり、観たいものや見ているものも似ていたり、言っていることも言いたいこともすぐに理解できるくらい仲の良い友人なのに、ものすごい唐突に変化球のケムシワードを投げられ、珍しくフリーズしてしまった。

聞けば、私がストローの袋を無意識に五角形に折っていて、それを見た友人が“ストローの袋でケムシをやったことある?”と私に聞きたかったらしいのだ。


なあんだ。笑
すっかり「私」がケムシ役になったところばかりを想像してしまっていた。

私の頭の中に映し出された数秒間の内容を話して、ふたりで大笑い。
ものすごい怪訝そうな顔をしていなかったか心配になったが、ぽかん顔だったらしいので、よかったよかった(?)!笑


そして答えは、NO。

どうやらストローを取り出す時にくしゅくしゅっと袋をしわ寄せして、そこへ水滴を1滴垂らすとうにょうにょと戻るらしい。ケムシをやったかと問われてもピンとこないわけだ。

なにそれ!やってみたい〜!!と、折り畳んでしまった袋をもう一度元の状態に戻していくも、きっちり折り目をつけて畳んでしまった細い袋は、もうストロー1本戻す空間さえ許してくれなかった。残念だけど、次のストロー取り出し時のお楽しみに。


一昨日の夜、知り合いが何人も出演されていて、おひとりおひとりのイメージに合わせて1本1本お花を選んで組んだサプライズ用の花束を持って応援に駆けつけた、KANA∞先生によるハットジャグリング教室の発表会のお話をしたり、さっき観てきたばかりの大道芸のお話をしたり、ゼロコの舞台公演『Silent Scenes』の中でずっと疑問に思っていたシーンについて思い出したことを話したり、採りたての大きなブルーベリーとお野菜の物々交換をしたり。
いただいたミニトマトはその場で食べちゃいたいくらいいい香りでフレッシュだった。

その後、最大の楽しみであり目的であった花火をしました。
実に何年ぶりだろう。少なくとも18で一人暮らしを始めてから昨日まで一度もしていないので、最後にしたのは恐ろしいほど前の記憶になる。そして、その最後にした花火の記憶すらもすぐには掘り起こせないほど昔の。おそらく小学校のイベントでキャンプファイヤーとかお祭りをした時だろうなというくらい古くて曖昧。

実家を出てお寺に勤めていた長い長い期間、みんなが大学生活を謳歌したり何処かへ遊びにお出かけしたりしていた間も、365日12年間休み無く従事していた。
今あちこちへお出掛けをしたり、こうして季節のイベントを友人と楽しめていることは実は私にとって本当に特別なことの連続で。みんながごく普通にあたりまえに過ごしてきたその期間を、どこかで取り戻しているかのような作業にさえ感じることも。
だからといってお寺に勤めていた時間が窮屈で退屈だったということは一切ない。その期間もまた誰もが経験できるようなものではないとても貴重なもので、今の私を形成する大事な歳月と宝玉のような経験の数々だった。


チャッカマンはご機嫌ななめで、友人が手にした1本目の花火もご機嫌ななめ。なかなか引火せず。でもそんなちょっとしたハプニングさえも楽しい。珈琲の香りのするキャンドルに火を灯して、そこから点火させていくことにした。

手を伝う振動、けむりの匂い、チカチカパチパチシューシューと音を立てて友人の表情を照らし出す火花。すべてがとても懐かしかった。この感覚を私はすっかりどこかに置き忘れてきてしまっていた。

最後は、やはり線香花火。
この特別感はどこからくるのだろう。
それまで立ってはしゃいでいたけれど、風よけのためにふたりでしゃがんで、揺らさないように大事に大事に持って火をみつめた。
クライマックスに向けて徐々に火花が衰退していくものだとばかり思っていたら、全盛のまま火玉がポトリと落ちた。
呆気なくて、でもそれがまたグッとくるほど切なくて。急に真っ暗になった手元をしばらく眺めて束の間の余韻に浸る。


友人のお店番を務める本屋さんにお邪魔してお店番が終わるのを待ち、そこからお夕食を食べ、近くの公園で花火をした。だから帰りはふたりとも別々の方向の電車。


友人の乗った電車が先に出発してゆき、反対側の電車を待つホームで右手の指や掌が花火の持ち手の鮮やかなピンク色(線状)に染まっていることに気づいた。駅の明るさでようやくそれに気づいたのだ。
ぎゅっと握っていたからかな。友人に「右手を見てみて」と連絡をしたら、友人は染まっていなかった様子。
小さい時も、私だけいつもそうだったことを思い出して、また急に懐かしくなった。

撮った写真を電車の中で見返すと、爆発シーン(そんな場面は無い)や、点火中に急に着火して声を上げて驚いたシーン(ブレてる)、問題の銃刀法違反シーン(ピストル型の手持ち花火の勢いが凄い場面)まで、私達がお腹を抱えて笑った各種の“迷場面”が取り揃っていた。


次の花火はいつか分からないけど、きっとその時は、はっきりと最後にやった日のことを思い出せる。それがいちばん嬉しい。






お風呂で落ちなかった右手にうっすらと残った着色を、今日も私は朝から事ある毎に眺めてはクスッとしながら過ごしている。









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