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東京の犬は吠えない

犬という生き物がいる。
愛おしさに毛と足が生えた風体で、人よりも人の心を理解する。私たちが狩猟採集民族だった頃からの旧友である。

そんな彼らが生業とするのが「吠える」ことである。それが彼らの専売特許であることは、漢字を見れば明らかだ。時には散歩道ですれ違う友だちへの挨拶を、時には優しく温かな手の要求を、時には悲しみに暮れる者への慰藉を、彼らはそのひと鳴きで示す。彼らの仕事はまさに愛の交換である。

それとは全く関係のない話だが、東京に来てからというもの、犬の鳴き声をおよそ聞かなくなった。

なぜだ。「こんなに愛おしい存在がここにいますよ!」と、なぜ知らせてくれないのだ。思うに、私の地元(田舎)よりは控えめでおしとやかな犬が多いことは確実である。彼らは歩いていても棒に当たるどころかその足取りは軽妙なステップを踏んでいるようで、それに見惚れて私が棒に当たる始末である。面目ない。

加えてもう一つ感じたことがある。東京に来てからというもの猫を見かけなくなった。猫、どこだ。本当に一度も見ていない。世界有数の都市、東京では猫専用の居住区でも設けているとでもいうのか。それならば感服である。当然その対応をされて然るべき可愛さなのだから。しかし都知事選が混迷を極めたこの都市が、猫に対してそのようなプリティラブリー精神を確立できるとは思えない。ならばどこにいるのだ。人に化けているのか。東京の人の多さはそれによるものなのか。いや、賢い彼らのことだ。人に化てまで東京に居続けようとは思わないかもしれない。猫は人間関係なんてお構いなし、不干渉・無殺生を貫く崇高な生き物である。ふむ、ならばここでの暮らしを猫たちはどう思っているだろうか。少しでもその愛くるしい肉球を休められるよう、彼らの安寧を切に願う。

ここでは、人間という生き物が多すぎて、それ以外の生き物の暮らしを感じられる機会が少なくなったように思う。これは、実際に都市の性質上そういった生き物が少ないのかもしれないし、ふと路地裏に目をやる余裕がなくなっているのかもしれない。これほど人間が嫌になる土地でこそ、人間以外の生き物の息づかいがなにか心の張りを和らげることだってあるはずだ。犬猫並びに各種生き物を見かけた方、目に焼き付けよ!

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