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視座という椅子

お疲れさまです、ナラ野です。

長い長い学生生活で育まれたモラトリアム精神はなかなか抜け切らず、早いもので初夏の匂いが漂ってきた。
これじゃちょうどセミが鳴き始める頃に「いつまでも学生気分でいられちゃ困るんだよ」と定番のお叱りを受けるだろう。そんなのこっちが困る。だてに長く学生をやってきたんじゃないよ。たった数ヶ月で学生気分が抜け切るのか。何か良い方法があれば教えていただきたい。

今回は、学生気分が抜け切る前に人生で培われた価値観を一旦振り返ってみようと思う。「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」とアインシュタインも言っていたことだし。

考えてみると、私はずっと視座という椅子の高さを調節するのに苦心していたなと思う。ここで言う「視座」の意味は少しニュアンスが異なるかもしれないが、物事を捉えるときの目線の高さ、自分が物事に対してどんなスタンスでいるのかといった意味で認識していただきたい。

たとえば「ネモフィラを見に行くカップル」とか「高熱のときに見る夢かとツッコむ人」とか「身体だけの関係を歌った曲ばかり出すアーティスト」とか「エモい関連のコンテンツ」をそういう視座で捉えてしまうのだ。

そういう視座で捉えてしまうというのはつまり、自分が座る椅子を高くして、まあ高くしてというのも傲慢なのでここでは表現の一種として考えていただきたくて、何が言いたいかというと、「私はもう一つ高い位置からあなたたちを見てますよ」といういかにもメタ的な態度で物事を俯瞰してしまうということだ。

だがしかし、自分の椅子を高くして良いことがあるかと言えばあまりない。唯一あるとすれば、その椅子の高さからの景色を見たことがあるという経験だけである。そしてその景色を見た後に、人間は2パターンの行動を取る。その高さのまま座り続けるか、高さを調節するか、だ。

要するに「ベタは嫌い」と「ベタに憧れる」の間で葛藤しているわけだ。「ベタは嫌い」という人はもう椅子の高さを調節することはしないかもしれないし、それがまわり回っていつか自分の首を絞めることに繋がるかもしれない。「ベタに憧れる」という人はその都度椅子の高さを調節して人生の充実を図ろうとするし、それは後々の自分にとって一種のリスクヘッジになるかもしれない。

なんにせよ「その椅子の高さからの景色」を見た経験は、今後の価値観形成において重要な役割を占めると思う。そこからどういう行動を取るかは自分次第だし、もちろん正解はないし、自分が人生を謳歌できればそれでいい。

ちなみに私は高さをギャンギャン調節しまくっている。地面に足がつかないほど高くするときもあれば、座椅子ぐらいまでの高さに調節することもある。都合がいい奴だと言われるかもしれないが、私はあの景色を知っている。「わかってんだよ。自分は楽しい方に行くんだよ」ぐらいの気持ちでいるとずいぶん楽だ。

「ありのままの自分」など存在しない。人間はその時々で主義主張を変え、どの瞬間も紛れもなく自分自身であるのだ。どんな椅子の高さに座る自分も愛してあげよう。

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