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「咎められない理由」を並べる理由

感想ってほどでもないんだけど映画「アクト・オブ・キリング」の感想です。(※ネタバレあり)


ゆるっと参加している読書サークルがありまして。で、今月の課題図書が映画「アクト・オブ・キリング」だった。(今月は映画なんだって)

「殺しの演技、ってことか。」って思ってたんだけど[act]には「行為」という意味もあるらしく「殺す行為」とも訳せる。


映画「アクト・オブ・キリング」

これが“悪の正体”なのだろうか―――。60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。その実行者は軍ではなく、“プレマン”と呼ばれる民間のやくざ・民兵たちであり、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっかけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、彼らにある変化をもたらしていく…。

引用元:アマプラの映画あらすじ


映画の内容は、1960年代にインドネシアで大虐殺を請け負っていた殺し屋たちが「その当時の残虐な殺しを再現する映画をつくる」過程を撮影したもの。「映画製作の様子」を撮影した映画。ドキュメンタリーに入るのかな。

あらすじから想像できる通り、この映画のオチ?は「主人公(当時プレマンだった人)が最後には自分の罪を認識する」ことだ。(ドキュメンタリーにオチっていう表現はあまり正しくないと思うけど)

私は「罪とはなんなのか」とか「正義とはなんなのか」とかそんな大きい話には興味がなくて。たぶん課題にされた理由もコレではないと思うし。

この主人公は「自分たちが咎められない理由」で隠していたものに向き合わざるをえなくなったんだな、ってところが気になった。


「咎められない理由」を並べる理由

映画では「なぜ大量殺りくを行ったのにも関わらず罪に問われないのか」を説明する元プレマンメンバーが出てくる。
「戦争犯罪は勝者が規定するものさ」
つまり、殺りくを指示した側が勝利したのだから、誰が裁けるのか?いや、誰も裁けない。ってこと。

これはもちろん「プレマンが罪に問われない理由」ではあるが「プレマンが罪悪感を感じない(もしくは感じなくてもよい)理由」なのだろうか。理由というより言い訳だ。(言い訳するな!と言いたいわけではない。どうして言い訳しているのか気になったってことだ。)

「もう40年も前のことだ」「食い扶持を守るためにやった」も言ってたけど言い訳だ。言い訳っていうのは「自分のやったことを非難されないために、正当化するために、できるだけ客観的な理由を並べること」だと思う。

この言い訳をするということは「自分のやったことを非難されたくない」、プレマンは「『大量殺りくをやったお前らは罪人だ!』と言われたくない」と思ってたってことになる。たぶん。

「罪を感じたくない自分」がいたのだけれど、それを認めたくなくて、不安を埋めたくて「正当性」というガードを探してきて被せて、探してきて被せて。そうしているうちにいつの間にか「正当性」しか見えなくなって「(罪だと分かっているけれども)罪を感じたくない自分」が最初からなかったかのようになってしまったのではないかと思う。

でもその「正当性ガード」は映画を撮影しているうちに、言われたことや聞いたこと、実際に演じてみて感じたことにじわじわ掘られてしまった。その結果「罪を感じたくない自分」がいたことに気づき、「おれって罪人…?」という発言に繋がったんじゃないかなぁと思った。


理由を探しにいくとき、あなたのこころは?

殺しの映画を自分の実生活に結び付けるのは難しい気もするけど、こういうことってよくあると思う。
なにかを感じたくなくて、気づきたくなくて、思い出したくなくて、人のせい、時代のせい、環境のせいにする。

なにかのせいにしようとしたり、理由を探そうとしにいっているとき、自分の心は何を思っているのか。これに早く気付くことが傷を浅くする一番の方法なんじゃないか、と思ったお盆の台風ステイホームデーでした。


<以下おまけ(なんの?)>
文章考えていたときに描いたラクガキたち

プレマン、クレヨンしんちゃんの園長先生みたいになった


サポートで補えるカフェインがある!(意:コーヒー奢ってください)