心、心うるさいな
写真学校で学んだ、あるいは教鞭をとった写真家の書いたものをいくつか読んでいて気づいたのですが、どうやら写真を学ぶ上で「写真」の基本と言うのがあるっぽいんですね。と言うのは、複数の写真家が同じことを書いているのに気づいたからなのですが、今回はそれをご紹介したいと思います。
おそらく基本中の基本なのだろうなと思うものは2つあります。
写真に心は写らない
写真から説明的なものを省け
おそらく、長らく写真教育の第一人者として教鞭を取られてきた大辻清司氏の影響が大きいのですが、それについて書いていきたいと思います。
1.写真に心は写らない
大辻氏の著書から引用します。
大辻氏に学んだ畠山直哉氏も、著書の中でこのように語っています。
大辻氏が書いている「言葉」と言うのは「考えること」なのですが、大辻氏曰く写真家は、現場の事物像に出会ったときはじめて対応するイメージが想起され、外側のイメージに喚起されて生まれた内側のイメージに導かれて撮影が行われるものであり、表現に言葉(=考えること)は介在しないとしています。要するに心の有り様(思考)ではなく、あくまで自身の内側に用意されているイメージに沿って撮影しているのだということですね。何故ならカメラを初めて持った子供でも写真は撮れるからです。
その大辻氏に学んだ畠山氏は、写真には心なんて写らないけれど、「写真も心のためにある」なら言ってもいい、としています。
2.写真から説明的なものを省け
畠山氏の著作から引用します。
東京綜合写真専門学校で学んだ金村修氏も、このように書いています。
金村氏は結構雑に書いていますが、その根底にはやはり畠山氏の書くような内容が含まれている、というかおそらくそのように教えられているのではないかと思うと、説明的な要素を省くことが写真において重要な事項だということがわかります。そしてここでもやはり重要なのは心なのです。
エモーショナルな”心”の氾濫するオンラインで
今回は写真家の言葉を借りて写真で重要そうな二点について述べてきました。その中で、重要なのは写真における「心」の置き方であることがわかりました。いわゆる唯物論的な写真が今でも重要である理由がわかっていただけたのではないかと思います。
こう考えてみると、写真を撮った時の自身の感情や思考、要するに心をダイレクトに発するようなエモーショナルな記事がオンラインに大量にある理由がわかるような気がします。要するに、世間が人間的と思って安心しきっている様々なコミュニケーションの破綻を感じ取って、”人間的”なコミュニケーションをしたいという欲望の現れなんじゃないかなと。「心」の存在が限りなく軽くなっているからこそ、心はここにあるんだと叫びたい。心を叫んだその先に何があるのかは分かりませんが、価値のある情報提供以外は無駄だと論破されてしまう現代において、絶対不可侵領域である心を発露させることで、コミュニケーションのスタートにしているのかもしれません。そもそも、装置であるカメラだってコミュニケーションを志向したモデルが発売されています(Vlog用カメラ!)。
立ち止まって考えてみると、大辻氏は1923年、畠山氏は1958年にそれぞれ生まれています。おそらく二人の周りには人間的なコミュニケーションがすでにあったのです。だから畠山氏は世間で交わされている人間的なコミュニケーションの欺瞞と退屈さに飽き飽きし、大辻氏の「説明的なものを省け」に共感した訳です。翻って現在では、人間的なコミュニケーションは切羽詰まった状況にまで来ていて、自分の心まで説明してコミュニケーションしようとしている。まるで「自分のことが上手く伝わらないのは説明が足りないからだ」と思っているかのようです。
ではなぜ写真を撮っている人は自分の心を語るのか。
インベカヲリ★氏の考えは、それに単純明快に答えています。
「作品の中で絶対的にこだわる部分、その表現でなくては自分の作品とは言えないもの、というのが作家にはある。」とインベ氏は言います。「そうした衝動の根っこには、抑圧された記憶が潜んでいるのだろう」と。つまり、自分のトラウマだから話したい、わかってほしいのです。
そして、こう書きます。
この本では女性に焦点を絞った数々のインタビューが掲載されているのですが、私が思うにおそらく”擬態”は男女問わず多くの人が行なっていることであり、それは現代において強度を増しているように思います。今では少しでも異端な行動をするとネット上での私刑と精神病名のレッテル貼りが待っており、世間は”私”に品行方正で”正しい”、要するに「こうあるべきまともな」生き方を求めている。とはいえ、人間は偽りのままで生きていける訳ではない。人は演技しないで人と接したい。そのことがどれほど大変かわかるからこそ、写真家である”私”は心を書く。なぜならそこには、表現したかった理由の根幹であるトラウマが隠されているから。
今回のnoteの草稿を患者さんのケアを専門にしている病院関係者の方に読んでもらったのですが、「仕事を始めた頃(約30年前)とコミュニケーションの在り様というか、コミュニケーションに人が求めているものがとても変わってきたなあと感じています。」というコメントをいただき、どうやら私が思うコミュニケーションの変容はどうやら本当らしいと思っています。その変容とは、コミュニケーションが「相互理解を目指すもの」から、「自分のことはめっちゃわかって欲しいが、他人のことはあんまり分かりたくない人たちによる壮絶な自分の押し付け合い」になりつつある(もうなってる)というものです。だから今後は、傷ついてもたくましく、なんとかして人とコミュニケーションを図っていく、そのコミュニケーションそのものを表現する、そんな写真が評価されていくような気がします。例えばIMAのフォトコンを受賞した以下のステートメントのように。
写真は心のためにあり、心は自分のためにある。
心を吐露した呟きを読むたびに、そんなことを考えています。
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