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心、心うるさいな

写真学校で学んだ、あるいは教鞭をとった写真家の書いたものをいくつか読んでいて気づいたのですが、どうやら写真を学ぶ上で「写真」の基本と言うのがあるっぽいんですね。と言うのは、複数の写真家が同じことを書いているのに気づいたからなのですが、今回はそれをご紹介したいと思います。

おそらく基本中の基本なのだろうなと思うものは2つあります。

  1. 写真に心は写らない

  2. 写真から説明的なものを省け

おそらく、長らく写真教育の第一人者として教鞭を取られてきた大辻清司氏の影響が大きいのですが、それについて書いていきたいと思います。

1.写真に心は写らない

大辻氏の著書から引用します。

実をいえば写真を撮るとき、私は何も考えない。つまり言葉による検討などはしない。もしかすると気づかないうちにしているのかもしれないが、その覚えはないのである。直感的にそれを撮ろうと心に決める。ファインダーの中で構成を決めるのも直感で、ちょうど銃の照準をするとき、的をねらうのが当たり前であるように、範囲が決まってしまう。露出やピント合わせも同じで、無意識のうちに手が動いている。そうしたすべてに言葉は介在しない。だから撮影する手順の中では、何も考えていないのだと思っている。

「写真ノート」大辻清司著、美術出版社、1989、P205

大辻氏に学んだ畠山直哉氏も、著書の中でこのように語っています。

 この前、暗室で作業中にラジオを聞いていたら、番組にゲストで出ていた一人の写真家が「私は色紙にサインを頼まれると『写真 写心』と、書くことにしています。写真には心が写るんです」という、印象的なことを語っていました。「写真には心が写る」なんて、「芸術は爆発だ」に匹敵するくらい、斬新な表現だな、と僕は思いましたが……。
 僕は、写真術は自然科学が生んだ技法である、と信じるものですから、「心が写る」としたら、僕のような者にとっては、それは「オカルト」になります。「『心が写る』って、それって心霊写真のことですか?」とツッコミたくなる。
 でも、その写真家の言いたいことは、なんとなく分からないでもない。写真は、現実の単なる影なのですが、それを見て、僕たちの心は確かに動く。そのことは、僕として実感として持っているのです。「写真に心が写る」とは思えない。でも「写真も心のためにある」と言い直したら、分からなくもない。

「話す写真(小学館文庫・電子書籍版)」畠山直哉著、小学館、2022、P30−31

大辻氏が書いている「言葉」と言うのは「考えること」なのですが、大辻氏曰く写真家は、現場の事物像に出会ったときはじめて対応するイメージが想起され、外側のイメージに喚起されて生まれた内側のイメージに導かれて撮影が行われるものであり、表現に言葉(=考えること)は介在しないとしています。要するに心の有り様(思考)ではなく、あくまで自身の内側に用意されているイメージに沿って撮影しているのだということですね。何故ならカメラを初めて持った子供でも写真は撮れるからです。
その大辻氏に学んだ畠山氏は、写真には心なんて写らないけれど、「写真も心のためにある」なら言ってもいい、としています。

2.写真から説明的なものを省け

畠山氏の著作から引用します。

 ある日、なんとなく自分でも納得がいかないまま、作ったプリントを机の上に並べてしどろもどろの話をしていた僕に、大辻先生がこう言ったのです。「説明的な要素をできるだけ省いてみたらどうですか?」と。
(中略)
 何かが上手く伝わらない、と感じる時には、人は工夫をするものです。その工夫とは、多くの場合、足らないものを付け加えたり、言い方を変えてみたり、分かりやすくかみ砕いたり、といったものですね。コミュニケーションを円滑にするために、世間はそのようなことを人に勧めます。(中略)つまり、世間は「上手く伝わらないのは説明が足りないからだ」というわけです。ところが、大辻先生は逆に「説明を省け」という。これはいったいどういうことなのか。
(中略)
「説明的な要素を省いた写真」とは、世間的な意味の衣を脱がされてしまって、裸になったような印象を与えてくれる写真です。
(中略)
 写真は基本的に、自然科学的なプロセスによって自動的に生まれる影像ですから、極端に言えば、人工衛星からの画像のように、人間が自分で撮る必要もなかったりする、ある意味非人道的な側面を持っているものなのです。(中略)目で見ている外界が、意味によって序列されているのとは異なって、写真の中の世界は、まるきり公平なのです。
 大辻先生は、そのようなことを昔から深いところで理解していたような方でした。(中略)写真の魅力を「人間性=心」ではなく、むしろ「非人間性=もの」の側におく、と言ったらいいでしょうか。

「話す写真(小学館文庫・電子書籍版)」畠山直哉著、小学館、2022、P91−94

東京綜合写真専門学校で学んだ金村修氏も、このように書いています。

状況を説明するとかそういう時に使うのは、広角レンズはとてもいいレンズたと思います。説明というのは対象をまとめたり、体系化したりすることですから、断片化されたらそれは説明にならない。けれど説明的な写真にいい写真はありません。写真史に残っているような写真はたいがいよく分からないものが多い。

「写真批評」金村修著、家電批評2022年6月号、晋遊舎、2022、P159

金村氏は結構雑に書いていますが、その根底にはやはり畠山氏の書くような内容が含まれている、というかおそらくそのように教えられているのではないかと思うと、説明的な要素を省くことが写真において重要な事項だということがわかります。そしてここでもやはり重要なのは心なのです。

エモーショナルな”心”の氾濫するオンラインで

今回は写真家の言葉を借りて写真で重要そうな二点について述べてきました。その中で、重要なのは写真における「心」の置き方であることがわかりました。いわゆる唯物論的な写真が今でも重要である理由がわかっていただけたのではないかと思います。

こう考えてみると、写真を撮った時の自身の感情や思考、要するに心をダイレクトに発するようなエモーショナルな記事がオンラインに大量にある理由がわかるような気がします。要するに、世間が人間的と思って安心しきっている様々なコミュニケーションの破綻を感じ取って、”人間的”なコミュニケーションをしたいという欲望の現れなんじゃないかなと。「心」の存在が限りなく軽くなっているからこそ、心はここにあるんだと叫びたい。心を叫んだその先に何があるのかは分かりませんが、価値のある情報提供以外は無駄だと論破されてしまう現代において、絶対不可侵領域である心を発露させることで、コミュニケーションのスタートにしているのかもしれません。そもそも、装置であるカメラだってコミュニケーションを志向したモデルが発売されています(Vlog用カメラ!)。

立ち止まって考えてみると、大辻氏は1923年、畠山氏は1958年にそれぞれ生まれています。おそらく二人の周りには人間的なコミュニケーションがすでにあったのです。だから畠山氏は世間で交わされている人間的なコミュニケーションの欺瞞と退屈さに飽き飽きし、大辻氏の「説明的なものを省け」に共感した訳です。翻って現在では、人間的なコミュニケーションは切羽詰まった状況にまで来ていて、自分の心まで説明してコミュニケーションしようとしている。まるで「自分のことが上手く伝わらないのは説明が足りないからだ」と思っているかのようです。

ではなぜ写真を撮っている人は自分の心を語るのか。
インベカヲリ★氏の考えは、それに単純明快に答えています。

アーティストは、作品の中で繰り返し自分のトラウマを表現するものだからだ。

「私の顔は誰も知らない」インベカヲリ★著、人々舎、2022、P10

「作品の中で絶対的にこだわる部分、その表現でなくては自分の作品とは言えないもの、というのが作家にはある。」とインベ氏は言います。「そうした衝動の根っこには、抑圧された記憶が潜んでいるのだろう」と。つまり、自分のトラウマだから話したい、わかってほしいのです。
そして、こう書きます。

(前略)この社会には、かつての私と同じように擬態して生きている女性があまりにも多いということ。「他人には理解されないだろう」と考えて、誰にも話していないことを持っていること。しかもそれは、普段は自己主張が少なかったり、まっとうに生きているように見える女性ほど、内面との落差が凄まじい。
 多くの女性は、社会に適応して他者とコミュニケーションをとるために、いかにもその辺にいそうな人間に擬態していたのだ。

「私の顔は誰も知らない」インベカヲリ★著、人々舎、2022、P21−23

この本では女性に焦点を絞った数々のインタビューが掲載されているのですが、私が思うにおそらく”擬態”は男女問わず多くの人が行なっていることであり、それは現代において強度を増しているように思います。今では少しでも異端な行動をするとネット上での私刑と精神病名のレッテル貼りが待っており、世間は”私”に品行方正で”正しい”、要するに「こうあるべきまともな」生き方を求めている。とはいえ、人間は偽りのままで生きていける訳ではない。人は演技しないで人と接したい。そのことがどれほど大変かわかるからこそ、写真家である”私”は心を書く。なぜならそこには、表現したかった理由の根幹であるトラウマが隠されているから。

今回のnoteの草稿を患者さんのケアを専門にしている病院関係者の方に読んでもらったのですが、「仕事を始めた頃(約30年前)とコミュニケーションの在り様というか、コミュニケーションに人が求めているものがとても変わってきたなあと感じています。」というコメントをいただき、どうやら私が思うコミュニケーションの変容はどうやら本当らしいと思っています。その変容とは、コミュニケーションが「相互理解を目指すもの」から、「自分のことはめっちゃわかって欲しいが、他人のことはあんまり分かりたくない人たちによる壮絶な自分の押し付け合い」になりつつある(もうなってる)というものです。だから今後は、傷ついてもたくましく、なんとかして人とコミュニケーションを図っていく、そのコミュニケーションそのものを表現する、そんな写真が評価されていくような気がします。例えばIMAのフォトコンを受賞した以下のステートメントのように。

私は心がざらついた時に自撮りをしてSNSにアップして、少しのいいね!に救われています。私をSNSにおくことは、静かな部屋で、時間や私や不安を持て余した何も知らない女の子のイメージで居られて、そしてずっと、インターネットの中だけでも、そうゆうイメージであり続けるために写真を撮っています。でも本当は、忙しい生活の中である程度しっかり者になって、ちゃんと社会を知っていちいち傷付いたりもするようになり、でもそれが時には写真を撮る原動力にもなっています。狭い私の部屋で撮った、私達のそんな自撮りが、インターネットで一瞬でも、つつましくたくましくあれば良いな、と思っています。

審査員 選評
ずっとセルフポートレイトを撮っている人。少々の言葉と共に、淡々とSNSにアップしているが実は痛烈な社会批判になっている、とわたしには見える。切実さもあり、ステイトメントも良かった。一枚一枚の写真も魅力的で、群を抜いている。パソコンやSNSの機能の特徴をうまく使った画像もあり、今後も撮り続けていくのだろうという未来への期待も持てる。

https://ima-next.jp/winners/self-portrait/if-you-go-back-nowyour-image-edits-will-be-discarded/

写真は心のためにあり、心は自分のためにある。
心を吐露した呟きを読むたびに、そんなことを考えています。

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