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写真にストーリー性を持たせない方法

皆様は、ギャグ漫画と笑えるストーリー漫画の違いについて考えたことがあるでしょうか。どちらも笑えることには変わりありませんが、実は全く違う部分があります。
それは、主人公が漫画に出ていることを自分で把握しているかどうかです。

ギャグ漫画の主人公は、自分がギャグ漫画に出ていることを把握しています。
例えばボボボーボ・ボーボボの次のページを見てみましょう。

これは行動にストーリー上の脈絡がなく、あくまで読んでいる読者に向けてネタを見せています。ビュティがツッコんでいますが、もしこのビュティのツッコミがなくても読者がツッコむことでギャグとして成立します。つまり、ボーボボは読者に見られていることがわかっているわけです。
翻ってストーリー漫画で笑える時というのは、主人公は漫画に出ていることがわかっていなくて、あくまでストーリー上整合性がある行動をした結果、笑えるというパターンです。主人公がメタ的な行動をすることで漫画に出ていることをわかっていますよという描写があるものもいっぱいありますが、基本的には一人の人間(あるいは動物等)として生活しているという描写であり、漫画の登場人物であるという自己主張を常にはしていません。その主役の、人生の中での行動が結果的に笑えるということであり、読者を意識して最初から笑いのみに特化した行動をしているわけではないのです。読者が笑ってくれなくても主役の人生(=ストーリー)は続くのです。

このことを写真に置き換えますと、写真に写っているものが「自分が写真に写っていることを理解している、または写っていることがわかっているように思わせる」ものは、それそのものの存在感を感じさせるため、ストーリーを想起させにくいということです。

例えば次の写真を見てみましょう。

AC写真より

この写真に写っている女性は、ポージングや目線などから写真に写っていることを理解しているように見えます。その時点で、この写真は被写体である女性の魅力がその全てになり、ストーリー性は得られません。この女性は何を思っているのか、とか、この女性の服装はどこで売っているのか、とか、何を考えるのも被写体である女性中心になります。写真に写っている被写体が、自分は写真に写っていることを理解しているのではないかと思った瞬間に、我々はその被写体中心でしか物事を考えられなくなり、そこに写真としてのストーリー性はないのです。注意点としては、それが悪いのかっていうと全然悪くなくて、被写体、例えばモデル写真や家族写真などは被写体中心で考えるからこその良さというものがあるので、ストーリー性の有無と写真としての評価とは別だということです。また、次の写真のように、写っていることがわかっているように見える人間とわかっていないように見える人間の両方がいると、逆にストーリー性が出てしまいますので注意してください。

ホンマタカシ「Tokyo and my Daughter」

人が被写体の場合はわかりやすいですが、風景の場合でも同じようなことができます。ストーリー性を失うためには、影がない気象条件で、動物がおらず、被写体と正対して、撮りたい被写体が他のどの被写体よりも面積が多い状態で、日の丸で撮ることです。

撮影:めかぶ

こうすることにより、写真から情緒が失われます。と同時に、我々は「この被写体が主役なのだ」と思い込むことにより、無生物である被写体が写真に撮られることをわかっているような錯覚(="それ"は撮られたのだ)に陥ります。こうしてできた写真は一般的に記録写真と呼ばれる類のものになり、そこにストーリー性はありません。記録写真とはよく言いますが、記録写真はきちんと記録されている必要があり、情緒があってはならないので、そう簡単なものではないのです。

ではストーリー性のない写真には何が写っているのでしょうか。それは「形」です。写真は、多くの場合現実のモノを写しているわけですが、写真にした時点でそれは望むと望まざるとに関わらず形になります。私たちは写真が形を写す物であることをよく知っています。スポーツ写真の躍動する筋肉やしなやかな手足の動きは、その形の美しさを残そうとしています。ファッション写真において外形は撮るべき重要な要素です。抽象的な写真は、その写し撮られた形自体が表現の目標と言っていいでしょう。
美しいか否かは別にして、形は視覚情報の根幹をなす物ですから、最適の形を求めるのは写真を撮る人にとって当然のことです。
形体・空間表現に卓抜した感覚をみせた写真家にアーヴィング・ペンがいます。彼はポートレートを多く撮りましたが、そのポートレートは、被写体の最も美しい形を表現していました。

アーヴィング・ペンが撮影したピカソのポートレート( 『Augenblicke』より)

色についても考えましょう。現在はデジタルカメラが主流なので、白黒とカラーどっちも後処理で作ることができます。では、ストーリー性を失わせるには白黒とカラーどちらが良いのでしょうか。個人的にはカラーだと考えています。なぜなら、多くの人は自分の目で白黒で物事を見ることがありません。さらに、カラー写真しかほぼ目にしない現在では、白黒の方が情緒的です。日の射した時の強い光の線条や、照り返しの柔らかな光のニュアンスは、白黒であればこそ味わえる情緒です。カラー写真はカラーな現実の意味を無理やり押し付けてきます。白黒はイリュージョンの世界に誘い込んでくれますが、カラーにはそれがありません。だから、ストーリー性を失うにはカラーで撮るのがいいでしょう。

最後に。写真作品の制作を考えた時、ストーリー性は必要なのか否か。これはどちらでも良いと考えています。ストーリー性のないグルスキーの写真は3億円で売れました。おそらく中途半端になるのがいけないので、徹底的にどちらかを追求するのが良いのではないでしょうか。

PHOTOGRAPH COURTESY OF ANDREAS GURSKY/CHRISTIE’S IMAGES LTD.

それでも迷ったときは、植田正治のこの写真を見てみましょう。トリミングミスではありません。どんな本にも書いていない構図、撮られていることがわかってるからこそのストーリー性のなさにも関わらず、見るものの心をとらえて離さない。こういう写真もあるんです。

植田正治「茶谷老人とその娘」

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