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あふれでたやさしさに泣く

寮 美千子さんの「あふれでたのは やさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室」を読んだ。精神科の授業で紹介されてからずっと読みたかったのだけど、テスト期間中のギリギリの精神状態で読むものじゃなさそうだな、と思って今になってようやく読んだ。

ここ数年で読んだ本の中で一番瑞々しくて、読んで良かったなと思った。登場する全ての人がやさしさであふれていて涙が出た。
すすめてくれた教授に感謝(いつもこの先生が講義中に紹介してくれる本は外れがなくてほぼ全部読んでいる)。この本に出会えた自分は幸せだなと思い、amazonを開いて岩手の祖母にすぐに送った。

そのamazonでは以下のように紹介されている。

「空が青いから白をえらんだのです」(新潮文庫)が生まれた場所で起こった数々の奇跡を描いた、渾身のノンフィクション。
奈良少年刑務所で行われていた、作家・寮美千子の「物語の教室」。
絵本を読み、演じる。
詩を作り、声を掛け合う。
それだけのことで、世間とコミュニケーションを取れなくて罪を犯してしまった少年たちが、身を守るためにつけていた「心の鎧」を脱ぎ始める。
本書を読むと、「人間ていい生き物だな」と心底思えます。

さして子ども好きでもないのに、児童精神科医になりたくて医学部に入った。今はその道に進むことはあまり考えてはいないけど、子どもがどんな風に育つのか、社会がどんなふうに子どもたちを育てていけるのかに対する興味はずっと持っている。

色んな機会をいただいて、小児科、精神科、児童相談所、小児疾患の患者会、学習ボランティア、少年刑務所など色んなところで子どもたちに関わらせてもらった。

医療や福祉の場面につながってくる子どもたちだから、もちろん「本人または周りが困っている子ども」が多い。でも、周りの環境や大人の関わり方で本人の目の輝きがものすごく違うなと気がついて不思議に思っていた。
近しいIQや特性でも周囲のはたらきかけや受け止め方でこんなに違いが出るものなのか、興味深いけど切ないなと感じていた。

これまでも関連する書籍や手記、漫画も興味のままにたくさん読んで、最近はNetflixのアメリカの女子少年院のドキュメンタリーを見たりもしている。
その中でもこの「あふれでたのはやさしさだった」が沁みたのは、私にとって、普段意識もしない「一番当たり前のこと」を受講者たちが獲得していくさまが美しくて、彼らがそれまでその機会に恵まれなかったことが悔しくて、だと思う。

ところが 奈良少年刑務所で出会った少年たちは、全く違っていた。
想像を絶する貧困の中で育ったり、親からはげしい虐待を受けたり、
学校でいじめられたり…。みんな、福祉や支援の網の目からこぼれつづけ、
加害者になる前に被害者であったような子たちだった。
それぞれが、自分を守ろうとして、自分なりの鎧を身につけている。
(中略)
そんな彼らは、心の扉を固く閉ざしていた。自分自身の感情もわからないほどに。
けれども、その鎧を脱ぎ捨て、心の扉を開けたとたん、
あふれでてきたのは、やさしさだった。
重い罪を犯した人間でも、心の底に眠っているのはやさしさなんだ。
ほんとうはだれもが、愛されたいし、愛したい。いい生き物なんだ。
(中略)
「自己表現」+「受けとめ」は、傷ついた彼らの心を確実に癒していった。

「あふれでたのは やさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室」前書きより

自分の考えていることや感じていることを表現していい。
それを誰かが受けとめてくれる。

このことを周りの人が与えてくれるチャンスであるとか、だんだん獲得していくスキルだと思ったことがなかった。私にとって当たり前すぎて、それをするかしないかは個人の判断であるとすら無意識に思っていた。

でも私もこうして「書いて」「表現する」ことに救われている。
最近金原ひとみさんの記事を読んでいて、「書くことで自分を癒している」「書くことは私の人生になくてはならない」という趣旨のことをおっしゃっていて、ああ私もそうだったんだと納得した。
別に語るほどの人生も思考もないのに、やたらnote書いたり、誕生日会の時はエッセイを冊子にして配るという奇行までやってしまった。なんでこんなに書きたいんだろうと思っていたけど、書くことで私自身が癒されているのだと思う。

そしてこの本を読むと、自由(と自分では思っている)に思考できること、それを他者に表現しても良いと思っていることは、今まで周りの人が私を大切にしてくれたからできるようになったことなのだなと感じる。

奈良少年刑務所では、まっすぐな大人たちが受容的にはたらきかけた結果、受講者たちはひょっとしたら同い年の人から20年以上遅れて、「思ったことを話してみてもいいんだ」「この人たちは何を言っても否定したり殴ったりしないんだ」という気づきを得ている。
彼らがこの授業に出会えて良かったと心から思う。

多分、彼らのこれからの人生でしんどいことはたくさんあるはずだし、ずっと安心・安全な場づくりをしてくれるあたたかい教室にいられるわけではない。
でも、一度でも自分の詩を読んで仲間に感想を言ってもらえた経験、朗読劇をやって生まれてはじめて子どもらしく振る舞えた経験、お母さんがいなくて寂しい気持ちを仲間に共感してもらった経験があれば、今日も頑張るか、とか、まあこれは目くじら立てなくてもいっか、と思えたりするのではないかな、と勝手に私が救われている。


凄惨なニュースが耳に入るたびに、犯人やそれと思しき人のことが報道されるたびに、「その人はどうやって育ってきたんだろう」「自分の生きる社会をその目と心でどんな風に映してきたのだろう」と必ず思う。
大変な環境にいたから、知能や発達に難しいところがあるから、という事情は人を傷つけてよい理由にはならないし、自分が被害にあった当事者だったらとてもこんなことは言えないけど、それでも全てを「自己責任」としていいとはどうしても思えない。

授業中の少年たちの変化について寮さんは「たったこれだけのことで瞬く間に変わるのだ」というニュアンスで書かれているが、安心・安全の場づくりがきっと何よりも大切でかつ難しくて、マニュアルがあってもこの授業やその成果を再現することは難しいのではないかと思う。(ご本人も「簡単なことだから真似してみてね!」とはしていない)
その意味で、やはり受講できた少年たちは本当に幸運だったと改めて思うし、この授業以外の方法でも、鎧を脱ぎ捨てて赤ちゃんに還る体験をできる人が一人でも多ければいいなと思う。

寮さんは「我々の授業が彼らの人生をよいものにした」などとは書いていないが、その可能性を大きく高めたのではないかと私は思う。
私はどんな仕事をするのかわからないけど、誰かがすこやかに過ごせて、もちろんたまにアップダウンはあっても「結果いい人生だったよな」と思えるような人生を送ることに関わりたいんだろうな、と自分のやりたいことっぽいものを認識した。
私が一生のうちで関われる人数はたかが知れてるかもしれないけど、一人でも多くの人が「今日は天気いいから気持ちいいな〜」ってお散歩したくなるような気持ちや状態になれるように関わりたいのだと思う(ような気がする)。

この授業に関わってくれたみなさん、そこで起こった化学反応を言葉にして伝えてくれた寮さんに心から敬意を表したい。

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