倫理的問題

昨年より、東京都の高校演劇の審査員を引き受けてから、当然のことながら高校演劇を観る回数が飛躍的に増えた。一日に連続で六本観る日もある。そして数を重ねることによって、わかってきた問題があった。それは「性的マイノリティをいじって笑いを取ることに、倫理的問題を感じていない」と判断できるケースが、ある程度あることだ。テレビの駄目なバラエティ番組にありがちな、安易にオカマキャラが出てきたり、同性愛に嫌悪感を示したりするシーンがあって、しかもそれが作品にとって必然性のある描写ではない、いわゆる小ネタとして扱われている場合、個人的には耐え難いことのように感じられ、その気持ちに引きずられて過度に低い評価をつけないように、苦労したことが何度もあった。いま思えば、それは急激に起きた問題ではなく、自分が高校生で演劇部に入っていたときから、多かれ少なかれそのような状況だった。
これにはやむを得ない、はっきりとした理由がある。高校の演劇部は、学校によっては男女の偏りが激しく、作品に必要な人数の男子、あるいは女子がそもそも足りていない、という事態が頻繁に発生するからだ。作品に必要なキャストをオファーしていくプロとは前提条件から違う。どちらも経験した私からすると、人数も男女バランスも限定される高校演劇のほうが、難しい要求に応えなければならないタイミングも多かった。昔、高岡高校の演劇部で二年生の時、演出と俳優を同時に担っていたが、単純に男子が圧倒的に少なかったから、という切ない事情によるものだった。
慎重に考えなければならない。例えば同性愛者であることを薄々自覚している高校生が、同性愛を揶揄する立場で笑いを取る役にされた時のことを考えてみればいい。そのことに自分が深く傷ついているにも関わらず、その役を演じることで新たに傷つく観客を生み出してしまう。被害者が半強制的に加害者にもなる地獄絵図である。苦痛を覚えて大会直前に降板する、という最悪な結末に至る可能性だって大いにあり得る。カミングアウトしていないだけで、潜在的に想像以上の数の高校生が性的マイノリティである。最も敏感に反応し、また傷つきやすい年頃でもある。この試練は、何らかの工夫で乗りきらなければならないのではないか。
今年審査員を担当した東京都多摩北地区で、審査員一致で都大会に推薦された創価高校『下剋上』は、エンタメとしての完成度もさることながら、その点もよく考えられていた。中国の科挙を取り扱ったこの作品では、男性しか試験を受けられないという制約があるために性別を偽って、塾に潜り込んでいる芝貴という女性が登場する。観たところ女子が多めの演劇部のようだったけれども、時代考証として必然性を持たせた妙案だと思った。芝貴を塾に入れることに決めた王陽明の言動、そして数多の男性を倒して一次試験を芝貴が通過していくさまは、痛快でさえあった。
希望がないわけではない。私が高校演劇をやっていた時から十年も経っていないけれども、性同一性障害や同性愛について、真摯に調べて創作する高校が増えている。異常におばさんがうまい男子高生や、宝塚ばりに男役がはえる女子高生に遭遇するのも、喜ばしい体験だ。大切なのは作品に本当に必要な要素は何か、今一度疑ってみること。

2016年度11月20日、北日本新聞文化面掲載

綾門優季(あやとゆうき)

1991年生まれ、富山県出身。劇作家・演出家・青年団リンク キュイ主宰。青年団演出部。2013年、『止まらない子供たちが轢かれてゆく』で第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。2015年、『不眠普及』で第3回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞。

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