日々の泡沫(8)――「ながらスマホ」は誤用か?正用か?

本稿を起こすにあたり、そう言えば「誤用」の対義語ってなんだ?とググってみたところ、どうやら「誤用」の対義語が見当たらないことを不満に思った人間が、勝手に「正用」を創作して使い始めたという経緯があるらしい。(何年何月何日の2chのスレで…といった話もないみたいだ)
恐らく「正用」という言葉は、これまであちこちで多発してきたのだろう。世の中に「正誤表」なるものが実在するのだから、「誤用」の反対が「正用」になるのは当然のように思われる。しかし、「正用」の記載がない辞書もあるという話だ。これはちょっとした驚きを伴う発見だった。

まあ、そんなことはさておき、「ながらスマホ」である。
すっかり市民権を得たかのように多用されているが、これはどうも「誤用」ではないか?と思うので、少しばかり考えてみたい。

「ながら○○」と言えば、なにはさておき「ながら勉強」であろう。
この「ながら勉強」の省略前の文章は、「なにかをしながら勉強をすること」である。「なにかをしながら」には、「音楽を聴きながら」「YouTubeを観ながら」「おしゃべりをしながら」などが置かれる。
この先の議論のために、「ながら○○」を、「BをしながらA(○○)をすること」と抽象化しておきたい。このとき、この構文の本意としては、
A:本来すべきこと
B:それを妨げること
であるだろう。
A:勉強をすること(=本来すべきこと)
B:YouTubeを見ること(=それを妨げること)
という関係において、「ながら勉強」という用法は成立している。
テレビやYouTubeを観ながら勉強することが推奨されないのは、言うまでもなく、テレビやYouTubeが学力を向上させるとは(少なくとも大人の考えでは)信じられないからであろう。
他方で音楽が容認されるのも、決してそれが学力を向上させる可能性を持っているからではなく、単に勉強の邪魔にならないからに過ぎない。勉強の邪魔になる音楽(あるいはそのような姿勢での音楽鑑賞)は、やはり推奨されないのだ。

以上を踏まえて、「ながらスマホ」という用法を考えてみたい。

「ながら○○」が「BをしながらA(○○)をすること」であるとすれば、「ながらスマホ」は、「なにかをしながらスマホを見ること」になる。たとえば「歩き(B)ながらスマホを見る(A)こと」だ。
ことのきAとBは、
A:本来すべきこと
B:それを妨げること
という関係にあるわけだから、
A:スマホを見ること(=本来すべきこと)
B:道を歩くこと(=それを妨げること)
という関係になる。
しかし、「歩きスマホ」の意味合いとしては、
A:道を歩くこと(=本来すべきこと)
B:スマホを見ること(=それを妨げること)
という関係――「スマホを見(B)ながら歩く(A)こと」を糺しているはずだ。となると、「ながら歩き」のほうが正しく、「歩きスマホ」(=「ながらスマホ」)では、真の意味合いが逆転してしまうのである。
実際、昔から「食べながら歩いてはいけません」と言われており、だから「食べ歩き」(食べながら歩くこと)は、非日常感を伴って、観光客がそれをするのは許されたりする。
我が国においては、歩くときは歩くことに集中すべきであって、歩くことを妨げる「食べる」や「スマホを見る」は、控えるべきと考えらてているわけだ。

要するに、「ながらスマホ」という使い方をすると、「ながら勉強」においては「勉強」が「本来すべきこと」であるように、「ながらスマホ」においては「スマホ」が「本来すべきこと」になってしまうから、これは「誤用」ではないのか?と考えざるを得ないのである。

では、なぜ当たり前のように「ながらスマホ」が使われているのか?
こうしたときは、背理法を使うのがいい。もし仮に、これが「誤用」ではなく「正用」であると考えてみるのだ。すなわち、あれは「スマホを見ながら歩いている」のではなく、実は「歩きながらスマホを見ている」と考えてみるのである。
要するに、「ながらスマホ」をしている人たちにとっては、
A:本来すべきこと = スマホを見ること
B:それを妨げること = 道を歩くこと
なのであり、その結果として、「ながらスマホ」が「正用」となっているのではないか?

思い返してみてほしい。
あなたが道を歩いていて、向かい側から「ながらスマホ」の人間がやってくる。双方まっすぐに歩いていけば正面からぶつかる。そのとき、どちらが道を譲っているか? 実は、あなたのほうが多く譲ってないか? あるいは、「ながらスマホ」の人間があなたに気づいて道を譲ったとしても、その人間は「あなたに大事なことを妨げられた」という顔をしないか?
そう。――あなたは道を譲る際、「スマホを見る」という「大事なこと」を妨げてしまったのである。

スマホを見ることには、どうやら中毒性/依存性があるらしい。或る議論によれば、それは狩猟採集時代に於ける「採集行動」に由来すらしい。「採集行動」では、樹の裏や葉の下など、とにかく見えないところを覗き込むことが、確実に成果を上げる。従って、樹の裏に回り込んだり、葉の下を覗き込んだり、そんな習性の強い個体のほうが子孫を多く残してきた。
スマホを見るという行為は、この「樹の裏に回り込んだり、葉の下を覗き込んだり」という行動によく似ている。なにしろ、樹の裏や葉の下は、回り込んだり覗き込んだりしない限り見えないのであり、しかし、そうすれば成果は行動量に比例して高まる。そのため、樹が立っていれば裏に回り込みたくなるし、葉が茂っていれば下を覗き込みたくなる。そのような行動を促すべくドーパミンが分泌される。ドーパミンはご存じのように前駆体であり、そのあとにアドレナリンの放出が待っている(かもしれない)のだから、やめられるはずがない。
スマホの画面は小さい。新商品が出るたびにいくらか大きくなっているようだが、決してタブレットやパソコンを超えることはない。なぜなら、「見えないこと=その向こうに見えない場所があるように思わせること」こそが、スマホ上でサービスを提供する連中の策略だからである。

中毒患者/依存患者から、その中毒や依存を唆している対象を取り上げようとすると、ものすごい抵抗に遭う。スマホもそれだと考えてみると、道をすれ違う際に、「ながらスマホ」の人間が「あなたに大事なことを妨げられた」という顔をするのも、理解できるだろう。
すなわち、「ながら○○」という用法の「BをしながらA(○○)をすること」に於いて、
A:本来すべきこと = スマホを見ること
B:それを妨げること = 道を歩くこと
これが、「ながらスマホ」をしている人間の内部で起こっている現象なのだ。つまり、「ながらスマホ」は「誤用」ではなく「正用」なのである。彼らにとっては「スマホを見ること」が「本来すべきこと」であり、「歩くこと」は「それを妨げること」なのであり、従って、できれば歩くことすらしたくないのである。(綾透)

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