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サー。という継続的な音と共に目が覚めた。カーテンを開けると、いつものような真っ白な光線が瞳孔に差し込んでくることはなく、重苦しい灰色の景色が上空にあった。久しぶりの雨だった。
何となくテレビをつけると、たまたま気象予報士の落ち着いた機械的な声がした。今日の担当は男か。
「この地方では、現在弱い雨が降っている模様ですが、雨雲は今後東へと抜け、昼頃には晴れるでしょう。雨上がりは気温湿度ともに非常に高くなります。熱中症には十分、お気をつけください。外出する際は水分や塩分補給をこまめに行いましょう。」
ほぉ、晴れるのか。でも暑くなるのか。そういえば夏休みに入ってから、そんなに外に出ていなかった。暑いのが苦手だし、人混みも苦手だから。それに、サークルや部活に所属していなかったから、大学に行く必要がそもそもなくて、外に出るのは、涼しくなってきた夕方に食料とアイスを買い込むためにスーパーに行くくらいだった。
でも何となく久しぶりに、昼から外に出たくなった。太陽の光を、部屋の窓のフィルターを通さずに浴びてみたかった。そして、夏休み中の大学がどんなものか、1回見て見たかった。
昼頃に晴れるという気象予報士の言葉を信じて、私は大学に行く準備をした。
シャワーを軽く浴びて汗を流し、お気に入りのシャンプーを使って髪をいい匂いにさせて、ふわふわの真っ白な泡が出るボディソープで体を包んで、再びぬるいシャワーを浴びた。最高気温は37℃とかちらっと聞こえた気がしたから、水色の、ノースリーブで膝丈のワンピースを着て、白い薄手の7分丈の夏用カーディガンを羽織った。髪を乾かして、頭の高い位置でお団子にしてまとめた。貝殻やヒトデの金色の飾りがついたヘアゴムをお団子にまきつけて、ちょっとだけ夏らしい気分にした。今どき流行ってるメイクはよく分からなかったけど、とりあえず眉毛を平行に真っ直ぐに書いて、ブラウンのアイシャドウをまぶたにうっすら塗って、二重幅にはオレンジ色をセレクトした。ファンデーションは、汗でベタベタになって落ちそうな気がしたから、塗らなかった。唇にはコーラルの色をのせた。朝食を忘れていたから、グラノーラを適当に食べて、そうこうしているうちに、雨音が無くなった。

本当に晴れた…。午前11時32分。ふと窓の外を見てそう思った。今朝の灰色はどこかに行っていた。鉛色のビルに色とりどりの広告、そしてその上には露草色の大空が広がって、ところどころに胡粉色の雲が、ぽこぽこと浮いていた。

よし。そう口にして、私は外に出た。やっぱり雨上がりは暑かった。太陽光が肌に突き刺さって、自分の肌で太陽光発電ができるんじゃないかとすら思えた。空気が体にべっとりと張り付いた。中途半端に水分が抜けたカラメルソースみたいに、べたっとしていた。汗をかけど、そのカラメルソースみたいなものが、汗の蒸発を妨げている。うーん。羽織っていたカーディガンをとっぱらって、ショルダーバッグにたまたま入っていた制汗シートで暑さを紛らわし、のそのそと大学に向かった。

大学の校舎に一歩足を踏み入れると、冷蔵庫のような涼しさが私を包んでくれた。天国だ…。汗も一気に引いて、海の中にダイブするかのような気持ちよさが、一気に体を巡った。
フラフラと、気の向くままに校舎内を歩いていると、いつの間にか学生共用スペースに来ていた。そこにいた人達は、ランチしたり、勉強したり、楽しそうに喋ったりしていた。掲示板も情報が更新されていて、誰かが何かを受賞したような、華々しい感じのお知らせが載っていた。
掲示板の周りが騒がしくて、巨大なマリモみたいな人だかりができていた。

「ねぇねぇ、これすごくない?文学部の子なんだってよ!」
「名前聞いたことないよこの子!なんでこんな賞取れるのに文学部来たのかな!?」

「うちの大学にこんな絵上手いヤツいたっけ?」
「それな。美術系の学部ないのにな。やべぇよな。」

へぇ、誰かがなんか絵で賞とったんだ。凄いなぁ。
…えっ?
あっ!コンクール!私の出したコンクール!そういえば、結果がわかるのはこの頃だって言ってた気が…!

すみません、すみません!
そう言いながら、掲示板の前の人混みをかき分けていく。ぎゅうぎゅうと押されながらも、頑張って波をかき分けていく。やっとの思いで集団の一番前まで来て、掲示板を見上げた。

『絵画コンクール 最優秀賞受賞!文学部1年 …』

ああ…。あぁ…!自分の名前の1文字目を見た途端、視界が一気に滲んだ。人前で大泣きした。やったぁ!と言いながら、膝から崩れ落ちた。
周りの人は驚いて、何事か?!と最初はオドオドしていたけれど、すぐに状況を理解したらしく、見ず知らずの人がみんな、私に向けての拍手を送ってくれた。
高校の時実現できなかった夢。認めて貰えなかった私の絵。ここに来て、やっと、やっと、認めて貰えた気がした。私の絵が、みんなに通じた気がした、伝わった気がした。

私は勢いよく起立して、見ず知らずの周りの皆さんに、ありがとうございますと大声でお礼を言って、直角に腰を折った。

もう少しみんなに祝福される雰囲気を味わっていたかったけれど、一刻も早く美術館に行きたくなった。私の描いた絵や、他の人の素晴らしい作品を見たくなった。
私は再び人の並をかき分けて大学を飛び出し、駅に向かって走った。
暑さなんて感じなかった。汗をかいていることなんて気にしなかった。ただひたすらに、駅に向かって、うわぁーって走った。

駅の気温は低かった。握りしめたSuicaは生ぬるかった。ピッという綺麗な高音と共に改札が開き、小走りでホームまで向かった。
ちょうど電車が入ってきて、プシューとドアが空いた。なんて運がいいんだろう。電車から降りてくる人を待っていたら、まもなく発車する旨を伝えるアナウンスがなったので、バッと車内に飛び込んだ。初めて乗り込んだこの路線は、新鮮な景色を瞳に映してくれた。でもそんなことより、早く美術館で作品を見たいという気持ちが、私の頭の中を埋めつくしていた。

1駅はあっという間なはずなのに、ものすごく長く感じた。lim[t→次の駅]1駅にかかる時間(t)=∞みたいな。いや、数学が大嫌いで適当に授業受けてたから、こんな公式なんて当てはめられるはずがない。数学ができるフリしてごめんなさい。とりあえず、1駅走る時間は数分って分かってるのに、数分なはずなのに、その時間が無限に続いていくような感覚だった。

『次は〜、〇〇、次は〜、〇〇。お出口は右側です。』

機械的でうにょうにょしたアナウンスが流れる。やっと着く!慌ててドアのそばに駆け寄ったが、慣性の法則に反しようとする電車に対して、私の体は慣性の法則に従ってしまって、大きくぐわんと揺れてしまった。

ドアが開くやいなや、100m走のピストルがなった瞬間のような勢いで、私は改札へと走った。階段を駆け下りて、握りしめて体温とおなじ温かさになったSuicaをまた、改札に当てて、ばっと外へ飛び出した。駅の壁には、コンクールの作品の展示会のポスターが何枚か貼られていた。ポスターには私の絵の一部が使われていた。美術館に来ない人にも私の絵を見てもらえるなんて…。ものすごい涙が出そうになった。ポスターに書いてある地図をもう一度確認して、大雑把な場所を把握して、躊躇なく走った。こっちは右、こっちは左。迷うことなく走った。信号待ちがすごく長く感じた。はやく青に変われ。そればかり願って、青になったらすぐにスタートダッシュを切った。


足を止めて、見上げた先に、ズドーンと重圧感のある建物がそびえ立っていた。美術館。古い洋館のようなその佇まいは、全体が冷気で包まれているようで、異様で、一歩踏み出すのに勇気が要りそうな感じがした。でも、この中に私の作品がある。みんなの作品が、恐ろしいほどある。私は一歩一歩踏みしめて、慎重に、美術館への階段を登った。
中の空気は、どんよりとしていた。時が止まっていた。オレンジの照明が、ポツポツと、等間隔に灯っていた。足音すら大きく聞こえてしまう巨大空間。私はここにいてはいけないんじゃないか。1歩後ずさりしたくなるような、そんな大きなトンネルは、異世界への入口という言葉が本当に似合うほどだった。
自分の絵を見るために、私はその異世界への入口をくぐり、異世界へと足をずいずい進めた。

『絵画コンクール作品展示場』

丁寧な明朝体で書かれた看板が、道を示してくれる。泥棒が入るかのように、足音をなるべく立てないように、無意識に足を動かす。展示空間は、今までの廊下の光景がうそだったかのように明るく、くもりガラスを通して、夏の太陽光が、ふわっと入り込んでいた。

色鮮やかなもの、淡いもの、鉛筆だけで描かれたもの…。様々な世界が、そこに密集していた。所狭しと、個々の世界が並んでいた。この人は何を伝えたかったんだろうとか、この影の付け方が好きだなとか、アングルがいいなぁとか、色んなことを薄っぺらく感じた。

私の作品は、1番窓際の、1番端っこに飾られてあった。赤と白の布でできた花がついていて、帯には、「最優秀賞」の文字。あぁ、私本当に最優秀賞とったんだと、実感した。

私の作品の前に、1人、男性が立っていた。オーバーサイズの白いTシャツに、黒い細身のジーンズを履いて、緑色のadidasのスニーカーを履いていたその彼は、ポケットにボロボロの文庫本を、無造作に突っ込んでいた。

「最優秀賞、おめでと。」

絵を見ながら彼は私にそう言った。

「これ、4月の最初の時の俺っしょ。」

「えっ…。」

「かじわらみさきさん。」

そう言って彼は、体の向きを90度変えて、私の瞳を真っ直ぐとらえた。
あの日、あの時、絵を書くきっかけをくれた彼。本を読んでいた彼。ずっと気になっていた彼。今ここで全て繋がった気がした。

「俺の名前は、つるさきさくとって言います。三重県津市の津に、汐留の留、山崎パンの崎で津留崎。桜に叶うって書いて、桜叶です。」

「つるさき、さくと、さん…。」

「俺、ずっと、深咲さんのこと、見てました。入学したての時に、桜の下で本読んでたの見られた時から、ずっと。講義室でいつも後ろの端っこに座って落書きしてたけど、最近落書きしなくなったことも、知ってたし見てた。」

「そ、そこまでっ…!恥ずかしいです…。桜叶さんは、いつもお友達さんと一緒に仲良くしてますよね。後、その本、ずっと、持ち歩いてますよね…」

「あーこれね!川上弘美の、『離さない』。俺好きなんです、この作品。」

「じ、実は私も…!」

そう言って私も、彼と同じ本を取り出して、ずいと前に突き出した。
偶然だった。本当に、偶然だった。絵のモデルの彼が、私の作品を見ていて、そして今話していて、同じ小説が好きで、同じ小説を今同じタイミングでそれぞれの手に持っていて。偶然が重なりすぎて、私は少し混乱した。ドキドキした。緊張した。思考回路がショートしそうになった。息が苦しくなった。頬が内側から熱くなった。心臓が1回、大きく脈打った。

「絵、描いてくれて、ありがと。こんなに綺麗に描いてくれて、ありがと。俺、深咲さんの絵、好きだよ。」

涙が出そうになった。初めて言われた。私の絵が好きだと。ずっと気になってた…いや、好きになってしまった人が、私の絵を好きだと言ってくれてる。嬉しかった。恥ずかしかった。胸の内から、色んなものが溢れに溢れて、零れた。

「好きです。」

声に出てしまった。ぼそっと、出してしまった。聞こえていなければいいな。もし聞こえたとしても、ごめんねって言われて、私はただの同じ学部の絵の上手い人間という存在になるんだろうなと思った。無意識に目をぎゅっととじていた。

「先言われちゃった。俺も好き。ずっと、深咲さんのこと、好きでした。」

「……えっ?」

「面と向かって喋ったの、これが初めてだけどさ、でも、あの、よければ、俺と付き合って、くれま、せん、か…。」

すごく硬い表情で、顔を真っ赤にした彼は、私を真っ直ぐ見て、伝えた。きっと、今言える精一杯の気持ちなんだろうと思った。私の心拍数は上がりっぱなしだった。

「こ、こんな、さえない私でよけれ…ば……!」

精一杯の気持ちを込めて、腰を90度に曲げて言った。

怒られて頭を下げた後に顔を上げるような感じで、ちょっと震えながら頭をあげると、ナチュラルな笑顔を向けてる桜叶さんがいた。つられて私も微笑んでしまった。窓から差し込む柔らかな夕日が、私たちの空間を温めた。お互いの顔が赤いのは、恥ずかしいからなのか、夕日のせいなのか。そんなことは別に気にしないけれど。

無風だったこの真夏の空間に、桜の甘い匂いのする風が、一瞬だけ吹いた気がした。

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