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あの日から、私は毎日、画用紙とにらめっこして、鉛筆で線を加えては消して、消しては加えてを繰り返していた。大学の授業も本格的に始まり、毎日朝から桜のトンネルをくぐるようになった。
初めてトンネルをくぐった日に出会ったあのひとには、もう会えていなかった。毎日校舎に入る前に、あの桜の木の下を確認するのだけれど、誰もいない。正直、髪の毛と日陰で顔がよく見えなくて、顔がわからなかったから、探そうにも探せないでいた。
あの人にもう一度会いたいなぁ。自然とそんなことを考えるようになってしまった。あの文学少年、何読んでたんだろうなぁ。すごい心地よさそうな雰囲気醸し出してたなぁ。まぁ、別に本には興味ないのよ。もう1回あの時のあの姿を見て、もう1回頭に焼き付けて、絵をもっと完成度の高いものにしたいのよ。それだけ。
今の私の絵はまだ、何かが繋がってない感じがする。何かが、何かの欠片が足りなくて、繋ぎ合わせられない気がする。でもそれが何なのか分からないから、あーでもない、こーでもないって、毎日やってる。でもそれがなんとなく放課後の楽しみになりつつあり、大学もなんとか毎日通えそうな気がする。

本格的に授業を受けてみてからというもの、教授の言ってることは、さっぱり分からない。昔から国語が苦手だったから、別世界の話に感じる。センター試験で国語の点数が良かったのはたまたま。てゆーか、あれは問題を解く行為だから、解き方のポイントを押さえればすぐだし、問題文の中にちゃんとヒントが隠れてるから、国語が苦手な私でも解けちゃうのよね。
でも、授業はそうじゃないのよ。教授の豊かすぎる感性で繰り広げられる文学の世界は、はっきり言ってついていけない。それはあなたが思ってることでしょー。とか、興味ないわー。とか思ってしまう。もう少し歴史的な背景とか説明して欲しいんだけど、でもその背景を説明する時ももう、教授劇場が幕を開けているわけで、国語も本も好きじゃない私にとっては、ただただつまらない90分。後ろの方の端っこの席で、頬杖をつきながら、教科書は関係ないページを適当に開いて、ついには、鉛筆握ってメモをとるフリをして、前の席の子の絵とか教室の窓とかを描きはじめてしまった。私やっぱり絵が好きなんだなぁ。文より絵の世界の方が好きだな。そんなことを思いながら、授業なんて聞かずに、前の席に座ってる子の背中を、ノートの端っこに描いていく。お、今日はいい感じ。服のシワの加減とか髪質とかちゃんと表現出来てる。いい感じ。しょうもない落書きを自画自賛して、今日の授業も終わる。と思っていた。

ふと顔を上げると、やや斜め前の方に、前のめりになって教授の話を聞く男の子がひとりいた。机の上には教科書、たった1本のペンとノート、そして文庫本が置かれていた。角が丸くなり、手垢でページの端は黒くなり、めくれ上がっているそのボロボロの文庫本は、4月の1番最初に、桜の木の下であの人が読んでいた本そのものだった。あぁ。こんなに近くにいたんだ、私の探してた人。顔は見えないけど、でも、髪型と本と手の形から、何となくわかる、あの人だ。落書きなんて忘れて、その人に視線が固まってしまう。喋ったこともないのに、何故惹かれるんだろう。この人は、描きたいと思わせてくれる何かを持っている。私の衝動を掻き立てる何かがある。それが何なのか分かったら、きっと私の絵も完成するのかもしれない。そんな気がする…。

気づけば教授は教壇から消えていた。周りの人も騒ぎ始め、授業が終わったのだと知った。まだ誰も友達がいない私は、ひとりぼっち。周りはもう既に友達が出来ているみたいで、喋ったり、一緒に移動したり、色んなことをしてる。この講堂の中が全体集合だとしたら、みんなは部分集合で、そして私は、たった1人の部分集合というか、補集合というか、なんかどこか疎外感があって、この全体集合に入る隙がないような感じがした。
寂しさを感じている間に、さっきの男の子はどこかに行ってしまったようで、すっかり私の視界の外だった。顔を一度見たかったし、お話してもみたかったけど、もう叶いそうにない。少し残念な気持ちになりながら、みんなの波にのまれて講堂を後にした。

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大学が本格的に始まり、毎日キャンパス内の桜並木を駆け抜けるようになった。いつもは講堂に一番乗りして、あの広くて静かな環境で本を読んでいた俺だが、今日は寝坊してしまって、講義開始ギリギリだ。慌てて講堂への階段を登ったけれど、まだ講堂に入ろうとしている人が何人もいて、少し安堵した。
俺は教授の世界観が好きで、いつも前の方に座っているけれど、今日は来る時間が遅いせいで、後ろの席しか空いていなかった。悔しい。しかも隣の人知らねぇし。
でも、少し嬉しい気もする。今日はあの子と席が少し近い。

俺は、いつも一番後ろの角の席に、あの日見たあの子がいつも座っていることを知っている。講堂を出る時にいつも目につくから、彼女が授業も聞かずに落書きしてるのも、知っている。めちゃめちゃ絵が上手いのも、知っている。あの日、本を読んでいた所を引かれてしまったのはショックだけど、俺はなんとなくあの子が気になる。友達に聞いても、名前は誰も知らないらしくて、なかなか話しかけられないでもいる。小柄で、細身で、色が白くて、本当に桜が似合いそうな、小説の主人公にでもなりそうな、可憐な女の子。艶やかで真っ黒で、そこにだけ春風が吹いているかのような柔らかな髪を、背中まで下ろしている。真っ黒な髪の毛を持っているのに、目は緑色。とても不思議な女の子だった。何か一点を見つめるような、真っ直ぐに澄んだ瞳は、俺をすごく惹き寄せる。俺を惹き寄せて、離さない。離れられない。
そんな彼女に1歩近づきたいけれど、どこか透明なバリアを張られているようで、触ったら電気とかビリビリって体に流れる気がして、踏み込めずにいる。近づきたい。近づいて、繋がりたい。
そんな思いを抱えながら生活していたから、今日席が近いのはとてもとてもラッキーだ。

今日の授業も相変わらず面白かった。教授の世界観は本当に好きだ。ひとつの物語を読んでいるような感覚に陥る。惹き込まれる。90分があっという間だ。何限でも受けられる。メモを取ることも忘れて、聞き入ってしまうくらい、この授業は楽しい。本が好きだからって理由だけで何となくここに来たけど、こんな素晴らしい空間に居れるなんて、俺は、人生のなかで最高の選択をしたに違いない。
教授の話を頭に入れながら本を読んだら、また違った感じ方、考え方が見えてくるのではないか。作者の物語の展開の仕方がよく理解できて、もっと本を楽しめるんじゃないか。そんなワクワクがとても募る。家に帰ったら本を読もう。もう1回あの本を読もう。5周目、読もう。
そんな気持ちをそっと閉じ込めながら、声をかけてきた友達と一緒に、講堂を後にした。

横目で見た彼女は、相変わらず何を考えているかわからないような顔をして、長いまつ毛を下に向けながら、丁寧に荷物をしまっていた。

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