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中国人彼女に人生初の俳句を書かせてみたら深すぎた

個人的にあやさとは、初心者が見せる奇想天外なムーブが大好きなのだ。
ズブの素人が自分なりに考えて編み出した型破りな方法は、基礎をまったく知らないがゆえに我々経験者の発想を超えた動きを見せてくる。
しかしそれは、型を知ってしまった我々経験者がどれだけ考えても到達できないような場所にたどり着くことがある。
そんな初心者が我々に始めて見せてくれる世界は、何より純粋で、美しい。

人生初という瞬間は平等に一回しか訪れない神聖な瞬間。
ウチの中国人彼女「茜茜」にはまだまだ見せてもらっていない世界があった。
俳句だ。
人生初の575で、どんなものが出来上がるのかを見せてもらおう。
話は変わるが小学生あやさとの夏休み時代、宿題に習字で決まった言葉を書くというものがあった。
新聞紙を広げて台所で習字をしたのだが、ちょうどそこにまだ小学生になる前(だったと思う)の妹がそこにいて、面白そうなので何か書かせてみようという事になり、好きな言葉を書いてみていいよと言ったところ少し悩んで妹が、

 た
 け
 の
 こ

という文字を書き、我が家は大爆笑。
どういう思考回路が巡ってたけのこに行きついたのかは不明だが、とかく何も知らない状態の初心者にはそういったことが往々にしてあるのだ。
言うまでもなく、これは訳も分からず初めて習字をした妹が書いた文字、というエピソードとセットで初めて面白くなる。

今回は茜茜をとりあえず椅子に座らせ、俳句について語っていく。
あ「ルールができると、物事って面白くなるんだよね」
茜「フーン」
あ「俳句は、たった17文字で作文を書くっていう不自由な状態だからこそ、名作が生まれて面白いんだよ」
茜「ナルホド」
あ「とりあえず、書いてみて」
茜「は?」

たったこれだけ。
そして575のリズムで好きなことを書いてみてと説明して、あとは茜茜に全投げ。
こういったときに変に例文を見せたり、季語がどうたらというのは野暮というもの。
ただ茜茜が心の赴くままにペンを滑らせているのを…
いいのさ…愛でるだけでっ…!(利根川風)

何気に私も、国語は得意科目でして、高校で学年一位とか取ったことありますゆえ、僭越ながら解説役を務めさせていただきます。
気分は夏井いつき先生。やるぞ。

椅子に座らせて、書いてみろと言ったところウーンウーンとなやんでいた茜茜でしたが、何かを思いついた瞬間ペンを走らせ下の句までノンストップで描き終わりました、所要時間1分弱。
では、天才茜茜のデビュー作をご覧ください。

上の句:ねこはしぬ

上の句から完全に天才のそれ。
一発目で我々が勝手に上げていた期待のハードルを全盛期のセルゲイ・ブブカばりの跳躍力で飛び越えてきた。
我々俳句有識者が想像する俳句の出だしと言えば、季語を諷詠するかそれを修飾するような言葉を先に提示するかという所。
それを茜茜は、「ねこはしぬ」という出だしで季語との決別を宣言し、生物学的には常識である事柄をポンと置くことによって、自己の死生観を句に記すことを明らかにしたうえで中の句への期待感を最大まで高めるという、いわばこれから続く句に対して最高のパスを放つ5文字をわずか一分足らずでチョイス。
何気に全部ひらがなという所もポイント高い。
死生観となると少し重めのテーマになってしまう所を、あえてひらがなにすることによって若干マイルドな印象をもたせてくるという手法。
これをすることによって多くを知らない子供が偶発的に発した哲学的な内容のようにも受け取れる。
それはまるで、今初めて俳句に挑む茜茜の状態をも暗示しているようだ。
パンチの利いたスパイスカレーに、気の利いた福神漬けを添えるような心配り、俳句を初めて一分程度とはとても思えない対応力である。

中の句:ねこはしなない

上の句を一刀両断する朝令暮改ぶり。
俳句という短く最短の情報量で勝負する世界で、ここまで大胆に逆説的な表現をするのは珍しい。
情報を最短で届けるどころか、この段階で我々は結局猫が死ぬのか死なないのかすら分かっていない。
もはや禅問答のようなやりとりで上の句で前かがみになった我々の意表を突いてくる。
先ほどの上の句がふわりと足元に着地するパスだとするなら、中の句は逆サイドのスペースに思いきりけりこむキラーパス。
結論を下の句まで後回すミリオネアの正解発表ばりの引き延ばしだが、ここまでくると下の句の5文字でそれまでの流れを回収できるかどうかがカギになってくる。
A「ねこはしぬ」
B「ねこはしなない!」
という二人の熱い押し問答の行方が下の句の内容なのか、はたまたこの謎めいた問いかけに哲学的な着地を下の句に一任するという事なのか、中の句をもってしてもまだ全容が見えないそのミステリアスさで読み手を一気に迷宮へといざなう。さながら世界観は霧のかかる竹藪だ。

下の句:どっちだろう

まさかの字余り
俳諧では字余りする事はポピュラーなことだが、当然そんなことを知らない茜茜が575という固定観念を自らこじ開けてこの句に幕を下ろした。
誰かが字余りにしていたから字余りにするのと、5文字と言われていながらも字余りにするのは違う。結果は同じだが、大きく違う。
恐らく俳句が575と言いつつも字余りになったり字足らずになったりする文化ができたのも、茜茜の様に固定観念を振り払い、それを是とした者が作り上げてきた俳句の歴史があるのだ、それを茜茜はスキップで一跨ぎする。
工夫すればいくらでも5文字にできたような下の句には、このような俳諧に対するアンチテーゼのような意味合いが込められているという気がしてならない。
さらに、「どっちだろう」というラストの問いかけにより、答えは君たち一人一人が持っているんだ、この575の世界の続きは、君が作り出すんだというアニメが打ち切りになったときの最終手段のような手法を用いて、読み手の解釈に余白をもたらせ、結局どういう事だったんだろうという疑問の念を燃料として読み手の心の中でこの句は動き続けるのだ。
これを天才と言わずして何と言おうか。
前述と重複するが、この「どっちだろう」という、少し稚拙に見える言い回しにすることで、本質を突きさす無垢な子供の問いかけのように感じるからこそ、私たちはこの句について大きな重力を抱えたまま読み終える結果となる。
上の句、中の句、下の句、とまったく読み手を飽きさせない句になっており、豊島将之六段をも彷彿とさせる序盤中盤終盤の隙の無さだった。
天才ここに極まれり。


まとめ

後で茜茜に聞くと、この俳句は有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」を題材とした一句だったようです。

上のサイトをざっと見てみたところ、ちょっと何言ってるかわかりませんでしたが、この出口が簡単に見つからない答えと俳句との夢のコラボを実現させてしてしまった茜茜先生。
才能アリどころの話じゃないですよホントに。
赤木しげるが雀荘にふらっと立ち寄って素人ながら裏プロを完封したように、天才が己の資質に目覚めてしまいました。
後で見ている俺の気持ちはまるで南郷さん。
後にも先にも茜茜のデビュー作とはこの一作しかないわけで、それに直接立ち会えたことを誇りに思います。

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