オードリーのライブシーンとキサラ
2008年M-1で準優勝したオードリー。
そこから、例の第一次オードリーブームが始まる訳だが、オードリーが望んだ形のブレイクだったか?というと、そうでもなかったりする。
おもしろ荘でブレイクした2007年頃に、
若林さんが語っていたオードリーの将来像。
「売れてもキサラの前説だけは続けたい」
「たとえ売れなくなっても、漫才をやり続けられたらそれでいい」
まさか、そんな単純な夢すらも叶わないなんて、誰しもが思わなかった。
オードリーの地肩の強さを信頼してのマネジメントなのは伝わってくるけど、若林さんの望んでいた未来とはどんどんかけ離れている虚しさも伝わってきた。
今でも、あの「第一次オードリーブーム」でのオードリーのやり方は、正解だったのかが分からない。
ただ唯一言えるのは、オードリーブームにより世界が一変してしまったということ。
M-1で準優勝する前
オードリーが主に漫才の腕を磨いたのは「そっくり館キサラ」の前説で、東京のライブシーンを回っていたのは、わずか2年足らずだった。
ズレ漫才を生み出して以降、コアなお笑いファン層向けのライブでは、優勝するレベルにまで達していた。
売れる前にライブシーンで見た神田伯山さんも
「こんなに面白いのにテレビに出たことが無いんだ」
と驚いたらしい。
おもしろ荘にてテレビで初めて漫才をやって以降も、
ネタ番組に呼ばれながらも、確実にファンを増やしていった。
その時のオードリーは営業に引っ張りだこだった。
春日という奇抜なキャラは遠くからも目立つ。
キサラで身につけた客引き芸は、地方の観客も魅了する。
長尺ネタから短尺の一発芸的ネタまで、要望があれば何でも出来る。
巷では「アドリブがあってこそのオードリー」との噂が広がり、
「テレビでは見れない長尺漫才」を思う存分楽しませる営業は、
好評そのものだった。
確実に営業が増える中でも、オードリーはキサラに出演し続けた。
キサラは自分たちのホームであり、
自分たちが出演することでお客様がきてくれるなら、
またとない恩返しになるからだ。
M-1で準優勝後
M-1で準優勝した後。
オードリーはほぼ全ての営業をキャンセルした。
もちろん、キサラにも。
当時のWEBサイトには
「〇〇(イベント名)への出演が無くなりました」
と大量に記載されていた記憶がある。
お笑い界隈をあまり知らない当時の私からすると
「売れるとはこういうものなのか」
と当たり前のように受け止めていたが、
イベンターの気持ちを思うと、明らかに異常であった。
当時のファン目線からしても、
オードリーに仕事を選ぶ権限が全く無いのを
なんとなく察することが出来た。
オードリーブームの果てのキサラ
テレビでの活躍は絶好調そのものだった。
オードリーブームが終わりそうな時に「人見知り芸人」が放送され、仕事がますます入ってくる。
一方で、仕事の合間を縫ってM-1ツアーや文化祭に出ている様子もあったが、チラシの顔になるような大きな営業は無さそうだった。
当時のブームは短くて半年、長くて9ヶ月くらいのものだったが、
翌年のM-1が終わった2010年以降も、仕事が落ち着く素振りが無かった。
終わらないオードリーブーム。
いつになったらガチガチのマネジメントから開放され、若林さんが望むお笑い=キサラに戻れる日が出来るのだろうか。
そんなモヤモヤを抱えていたある日、あるニュースが舞い込む。
『そっくり館キサラの店長が変わった』
オードリーブームの裏で、キサラではこんなことが起こっていただろう。
オードリーがブームになる
→ キサラに人が殺到する
→ 次第にオードリーブームが落ち着いて、客足が遠のき始める
このタイミングで経営者が変わったのだ。
当時のキサラではモノマネと一緒に普通のネタも披露していたそうで、オードリーが前説していても、違和感がない雰囲気だったらしい。
そんな中、新しい経営者がやったこと。
それは
「モノマネパブとして、モノマネをさらに特化させること」
つまり、モノマネ芸人以外の芸人がキサラに出れなくなった残酷な現実だった。
店内も改装して明るくなり、当時の面影も減っていった。
一方で、売上は絶好調そのもの。
キンタロー。などのテレビでの売れっ子を排出するような、
モノマネ界隈の中心となる劇場へと変わっていった。
オードリーのブレイクが、自分たちの古巣を変えてしまった。
それは本来、とても良いことであるはずだったのに、どこか胸が苦しくなった。
後戻り出来ないオードリー
更に追い打ちをかけるようにM-1が終了し、
第7世代のブームが来るまでの長い長い冬の時代が始まった。
あれほどブレイクしたのに、
振り返ってみるとオードリーが持てた冠番組はCSのみと、
とてもとても、残酷な現実だった。
なのに、オードリーが戻る場所も無かった。
かつてあったキサラもない。
ブレイク時に営業を断ったため、営業を入れるのですら気まずい。
振り返ると、選択できる道は1つしか残っていなかった。
「テレビに出続ける」
「テレビに出続けるからには、天下を取りたい」
長い冬の時代が明けた時
冬の時代が明けた時、
オードリーは武道館で漫才をしていた。
当時抱いていた夢とは全く違う形になってしまったが、
東京のお笑い界隈でオードリーの通った道は「伝説」として、
今も密かに語り継がれている。
テレビ業界では、テレ朝の「バラバラ大作成枠」を中心に、
新人ディレクターと売れっ子芸人がタッグを組む試みもされている一方、
K-PROや漫才協会を中心として「東京で漫才をやり続けられる環境」を作る動きが始まっている。
「今の若手いいよなー」と、若林さんが言うのも無理はない。
なぜなら、私達が暮らしている「世界」は、
どこかの誰かが、かつて憧れていた世界だから。
10年後、オードリーは天下を取るか分からないけど、
何かしらの大きなことをやってくれるだろう。
そんな予感をさせてくれる、オードリーが大好きだ。
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