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ご自愛ください、できるかぎり、たとえそれが愛だとわからなくても

手紙の文末に添えられた「ご自愛ください」は祈りの言葉。皿の端のパセリなんかじゃない。自分がどうにかすこやかに機嫌よくここにいられるのは自力だけが成したことではないなと思い至ってからは祈られていることに自覚的になった。そんな気がするってだけでいいと思っている。

自分を愛するとはどのようなことを指すのか。
どこに心を置いて、どんな表情で、どちらに顔を向ければいいのか。わからなくて目を瞑って俯くことを選ぶなら、それもまたあなたの自愛になり得る選択のはず。
目を開けられないことが、前を向けないことが、自分を見つめることすらできないことが、自愛に値しないと言い切れるのは自分自身だけ。自分を愛することなど選ばないと言うのなら、それもまたあなたが選び取った自愛だ。

きっと、あなたは首を縦に振らないだろう。

それでも、これを読んでいるあなたがここにいるのは誰でもないあなたの心身魂の毎瞬の選択によって叶ったことだから、あなたに出逢えたことを、わたしはあなたの自愛に感謝したい。たとえ明日いなくなることを選んでも、あなたがあなたのために選んだことならば、それはわたしや誰かが差し出せるものより絶対的に「いいもの」なのだ。
あなたがあなたを愛するということを、誰も代わることはできない。
わたしはそうした淵に立って、愛するひとが自分と別の人間であることに泣くような愚かしさを持ち合わせていますが、それはわたしがわたしに差し出せる「自愛」ではないと気づいてからは思い詰めることが随分減りました。「ご自愛ください」「あたたかくしてください」「元気でいてね」
贈られた言葉に応えたいと願う気持ちがわたしの自愛の原動力になっている。
自分ひとりでは、ときどき自分を愛することを選べない。
だけれど、わたしはわたしを、あなたはあなたを、ふがいなくとも生きてゆくしかないのだから、どうかご自愛ください、できるかぎり、たとえそれが愛だとわからなくても。

「自分」という言葉が指す存在も、「愛する」という言葉が内包する領域も限りない奥ゆきを持っている。
生きている限り自分という存在への認識は日々あたらしくなり、愛するということの意味も際限なく広がりを得てゆく。
他人の言葉の定義を頼らないで、大きな声で語られる愛を鵜呑みにしないでほしい。あなたが生きてふれた言葉にならないもののほうがずっと大事なのだから。
自愛は技術じゃない。
自分とは、愛するとは、ひとりひとりの中で移ろって然るべきもの。
自分が自分に愛されているような気がしたなら、そんな思い込みがうまくゆきそうになったら、それは自愛かもしれない。
自愛はできるできないで話すべきじゃない。
自愛はあなたが選べるもののひとつだと、わたしは思います。


「自助」について書いた記事。
2020年の終わりに書いたもので多少粗いですが置いておきます。


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