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庭の眺め

同じことを長く続けていると、その庭の中でもすごく日当たりのいい場所といくら季節が巡れど一向にほの暗く淀む場所がわかってくる。自分が感ぜられる範囲はもちろん、きっと自分には思い描くこともできないくらい遠く、密やかなところまで「選んできたこと」は関わっている。それが選んできたもの、選び続けてきたもののほんとうの姿なんだと思う。こちらへ向けられた言葉なのだと思う。
私はその暗がりに花木を植えたかったけれど、どうにも難しい。
あかるくて気持ちいいところで小さな花々を愛でるたのしみと引き換えに、その暗がりがあるのだと思うとほんとうに花木が欲しかったのか、その暗がりをただ排除したかったのかわからなくなった。何も言わず立ち枯れてゆく花木を見るたびにその庭のことすべてを悲しんでしまう自分には、選び続けてきたことへ返す言葉がなかった。

まばゆさの中で目を開いていることに付帯してくるどうしようもない陰りの抱き方を探るしかできないのかもしれない。数年来の悩みだなんてここまで大事にしてきたけれど、ある種当然のことのように思えた。私が「欲しいもの」より欲しがってきた「ほんとうのこと」はもうここにあるのだとしたら。そうだとしたら?

その花木が咲いたらきっときれいなんだ。
ずっと見惚れていられるし、見られなくなったあともきれいだったなってひとりで何度も何度も思い出すと思う。でも私じゃない誰かがその花を見たならば、ちゃんと咲くんだってわかってくれたなら、ほんとうだって信じてくれたなら、それだけでいいような気がしてきた。
何かや誰かが私から奪っていったもの、奪うという格好で与えてくれたもの。そればかりで満ちたこの庭でまだしたいことがあるとすれば、拾ってきた石を置くようなことくらいかもしれない。

これは課外授業だし、研修旅行だし、誰かの見ている夢の一環だ。
私ひとりでできたことなんてひとつもないような気がしてくるとき、ほんとうになんでもできる気がしてくる。
持て余したかなしみを手放すと決めるとき、ようやっとあなたと歓びについて語れるのだろう。
ここにいるあいだになにしようかな。
あなたとなにを話そう。
あなたとなにを話したいだろう。

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