愛は金色
愛は金色のあんかけプール
愛は金色。
金色の重たい液体。とろみがあってあたたかい。
それはまるで、あんかけそばや天津飯の、あん。
喉を過ぎるときの遅さ、熱いものが胸に溜まる、あの感覚。
愛のテクスチャーと体感が合致してからは、こうした思いから「金色」を取り扱うようになった。こうした思いを物質化できるからデザインは面白い。合致の助けとなったのは2012年刊行の雪舟えまさんの『タラチネ・ドリーム・マイン』だった。
この言葉がとても骨身に染み渡るのは牡羊座だからでしょうか。
この世に生きることは、着衣泳のような心地。水着は、わたしなら「詩」という広々としたうつわ。愛に生きることはこの金色のあんかけプールをざぶざぶと乱暴に泳いでゆくこと。
(みんながそれを見たいと思ってくれていたらうれしいなあって。ひとまず信じている)
光を讃える、光を湛える
金色の装身具を身につけるとき、光を湛えている心地でいたこと。シュタイナーの色彩論を読んでいる中で、日光と愛と金色と心臓のはたらきが結びつき、光を讃えることが自分の言葉でも届くと思えたこと。
わたしは自分が頼っている光のみなもとを「神さま」とは呼ばない。
だけど「創世記」の中で神さまが人へ「人が独りでいるのは良くない。」と言い切ったことはうれしかった。神さまはその後続ける「彼に合う助ける者を造ろう」。
この後に続くアダムとエバの話より、多くの鳥や獣に囲まれながらそれでも「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」その人を思う。きっと孤独ではなかったはずだ。なぜならはじめから独りだったのだから。
人が独りでいるのはどうして良くないのか。答えをその人が感じていたわけではないだろう。でも神さまは言い切った。言い切ってくれて、ありがとうと思う。
言葉をひらいて、橋を渡す
2022年は聖書に出会った年だった。
祈りを務めとする人に出会ったので読んでみているけれど、自分はこんな風にあくまで自分の中にあった「ほんとう」と照らし合わせて読んでいる。聖書を読んだら世界がぴかって変わっちゃうのかしら?と思っていたけれど、決してそうではなかった。でも、大事なことが書かれていることはわかる。シュタイナーの人智学を自分の言葉でひらいていきたいと願うように、これから聖書の言葉にもふれていきたいと願っている。こんなにも手づかみでいいのか、わからないけれど。
自分が何者でもないからこそ、渡せる橋があると信じている。
祈りに内側も外側もない。そこにあるのは人間が決めたことだけ。言葉で引かれた線だけだ。
この世のふしぎが減っても、依然としてこの星に生きることは困難なことだ。ここはひとりでは立ち行かない世界。わたしだけではなく、誰ひとり、ひとりきりでは生きていけない。そういう前提にしないと、また誰かの弱さを取りこぼしてしまう。線を引いて、あなたの強さに甘えてしまう。殴られてもいい、殺されてもいい人などいない。わたしにとっては、いない。この世界のどこにも。
光は至るところにある。もうすでにここに溢れている。何も持たずとも、もちろんわたしの詩集を読まずとも、「お守り」はすでにあなたの傍に在る。そのことに気づいてほしい。そのことを教えてくれる言葉たちを、わたしは言葉でひらきたい。この展示は、そのこころみの第一歩です。
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